黄色い繭の殻の中

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公開:2024/7/6

下書きが幾つかスタックしており、少し考えがまとまるまでの間は寝かせる事にして、頃合いを見て書き直す事とした。恐らく今はこの事について書くべき時ではないのかもしれない。

最近といえば、専ら映画を観る生活に戻っている。映画を観る慣習は高校の頃からで、昼食代を節約して貯めた資金でレンタルDVDを借り、田舎のTSUTAYAから大都市・渋谷まで至る店舗へ、学校帰りに1時間半以上かけて観たいタイトルを借りに行くなんてことも屡々あった。特に好き好んでというわけではなかったが、長く続けている写真、文章、音楽の収集癖の隙間に映像が自然と入り込んだと言った方が正しい。じっくりとひとつの作品に集中して観ては、何日もその作品のことで考え事をしているようなこともあれば、多い時は一日で5〜6本観ることもあり、後者の場合は大抵はブログを書きながら、調べ物をしながら、ブログのカスタムテーマのプログラムを書き換えながら、グラフィックを作りながらなど、作業BGMのように生活に組み込まれたひとつの歯車のように機能していたし、今でもネット配信ではそのようなショートカット的な鑑賞方法を取りがちである。元々といえば、高木正勝の表現のような動く絵画であったり、撮影監督のポジションに興味があったものの、資金面や家庭の事情から映像関係の大学への進学を断念した経緯がある。しかしながら、元々の専門の畑はなんだかんだ映像で(高校の時点で既に映像を専攻できる学校へ進学している)、大学を休学してアシスタントで働いていた時には、映像とWebがメインの会社で付け焼き刃ながら元々の物覚えの速さだけを頼りに、へばりながらも何とか名目上は自営業として在学中の間は切り盛りしていた。そんな経緯があって、元の轍に戻ってきたわけである。

表題の『黄色い繭の殻の中』だが、ファム・ティエン・アンというベトナムの監督が昨年2023年のカンヌで新人監督賞(カメラドール)を受賞した作品である。国内では恐らく2度目の上映で、御茶ノ水のアテネ・フランセで再上映があるというので、元々の評判を聴き付けて先日観に赴いた。時間の都合で短編と解説は今回はやむを得ず断念し、本編だけ観た。

以下は東京フィルメックスのサイトから。

バイク事故で義理の姉を亡くした青年ティエン。事故を奇跡的に生き残った幼い甥を連れて、彼は義姉の遺体をサイゴンから田舎の故郷の村に送り届けることになる。地元のキリスト教共同体での埋葬の儀式の後、ベトナムの田舎の美しく神秘的な風景の中、彼は何年も前に失踪した兄の捜索を始める。そしてその旅は、いつしか兄を探す旅から、彼自身の魂の在処を探す旅へと半ば変質していく。彼の見る景色の中で、過去と現在、目覚めている時と夢を見ている時、そしてこの世界と別の世界が互いに無造作に入り込んでいく.... ベトナム出身の新鋭ファム・ティエン・アンの長編デビュー作である本作は、細心の注意が払われた長回しの撮影が鮮烈な印象を与える、新人離れした風格を持つ作品だ。重層的で緻密なサウンドデザインも見事で、ファムの恐るべき才能を感じさせる。

第24回東京フィルメックスより:https://filmex.jp/program/fc/fc3.html

まず、全体を通して印象深かったのは、反射物や遮蔽物の使い方である。例えば、上記のサイト内に掲載されているキャプションにある、上裸の男性と映り込む子供のシルエットの構図を例とする。このような、磨りガラスという遮蔽物を噛ませることで、本来ならば、観客の想像に委ねる領域とされているフレーム外の領域を、予め作り手側の意図によって、対岸の被写体に対してヒキの構図を使わずにひとつの画面に収めてしまう独特な画面構成の手法を取っている。加えて、繊細で豊かな色彩感を放つ美しい描画、選定された小道具のディテールの細かさ、精巧に作られた音響によって、その映像単体が持つ表現力の解像度の高さだけでも、静的なディテールの中で具体的な説得力を増強させている。

物語は、特別多くの登場人物が介入していくような設定ではなく、横暴な言い方かもしれないが、孤独を抱えた主人公のロードムービーとも解釈できる印象が強く、ある種の『我々(自身)はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』といった命題にも近い。実際、このタイトルが付けられているゴーギャンの絵画の制作背景と、本作に出てくる宗教観に准えたキリスト教的な教理問答に乗っ取った内容はほぼ一致している(本作に登場する葬儀の手法は、ベトナム本土に広く普及した儒教式葬法ではなくキリスト教の葬法を執っている)。また、バインミーの路店にいた雛鳥を拾い上げ自室に持って帰り世話を見る光景を始めとし、蚕蛾の巣立ち、妙な鳴き方をする雄鶏の闘鶏、釣られた魚たちが蠢くバケツの中など、本編には数多くの動物が登場する。人物においても、冒頭では主人公の個人の情景、次に生き残った幼い甥との対話、修道女として再会したかつての思い人、終盤に登場する意味深な内容を語る老婆、河川に出てくる兄ではなかった妙な畑の主、川に浸かる主人公の順序で終幕へ向かうも、こちらはひとつひとつの関係性を概ねマンツーマンの形式で丁寧に描いている。自生する動植物をはじめとした生き物は、これらの対話の合間ごとに静かな接合点として、不在の兄や義理の姉の存在=劇中の中で描かれる霊性を俄かに匂わせ、全編を通じて漂わせているているようにも感じられた。

こじ付けだが、陰陽魚と言われるだけあって、バケツの中を蠢く魚たちが太極図のような曲線をなぞっており興味深く感じた。

気になって、東洋哲学や思想やら色々と調べて始めたら収拾がつかなくなってきたため、今回はここまでで。

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