※6/3 改訂
文章をインターネット上に書く行為を振り返ると、15年以上も前から、何かしらを筆記しては、転々と移動し続ける遊牧民のような生活をしている。読み手が決まって存在するようなパフォーマティブな文章ではなく、ただ自分自身の思考をまとめるだけの代物、つまり、内省やつぶやきのような、宛先不明の文章である。そのように、コンスタントに思った事を何となしに書いていた意味では、考えを文章化するまでのコストは、一般的に言えばかなり低い方だと認識している。
自らの習性を振り返れば、それぞれの場所、それぞれの環境下において、異なる名前を使用していた経緯がいくつか存在する。特に意味はないと言い切るには複雑だが、事の発端を探すなら、インターネット上で実名を名乗る必要がない・実名を使用する利点がない・十分なハンドルネームだと思えなくなった・プライバシーに関わる加害行為や環境の変化が主な理由だろう。誠実に対処するのであれば、一個人の自己紹介は単純明快で簡潔である方が相応しい。少なくとも、社会生活においてはそうだ。しかし、対人関係などによって如何様に現実へ接続されていようがいまいが、ここはインターネットであるし、そのような秘匿的な存在が、物理的な質量なしに(IT的な話をすれば全く変わってくるが…)実態を持たなくても良くも悪くも通用する場所である。
ところが、みずからの名において語るというのは、とても不思議なことなんだ。なぜなら、自分は一個の自我だ、人格だ、主体だ、そう思い込んだところで、けっしてみずからの名において語ることにはならないからだ。ひとりの個人が真の固有名を獲得するのは、けわしい脱人格化の修練を終えて、個人をつきぬけるさまざまな多様体と、個人をくまなく横断する強度群に向けて自分をひらいたときにかぎられるからだ。そうした強度の多様体を瞬間的に把握したところにあらわれる名前は、哲学史がおこなう脱人格化の対極にある。それは愛による脱人格化であって、服従による脱人格化ではない。私たちは自分の知らないことの基底について語り、わが身の後進性について語るようになる。そのとき、私たちは、解き放たれた特異性の集合になりおおせている。姓、名、爪、物、動物、ささやかな〈事件〉など、さまざまな特異性の集合にね。つまりスターとは正反対のものになるということだ。
(ジル・ドゥルーズ『記号と事件 ― 1972-1990年の対話』宮林寛訳、河出書房新社、2007、p.18-19)
『記号と事件』の冒頭で、ドゥルーズが承前の引用のとおりに述べている。何かを書き述べる、意見を発言する行為においても、ここで言う『名』と同じ事が言えるのではないかと思う。ひとつの意見を指し示したところで、提示した言葉自体が何かを語り尽くしているかと言われればそうではない。さらに言えば、そのような考えそのものが、コミュニケーションが優しい誤解で成り立っている以上、伝達の不完全さ/困難さを常に内包している。また、常に何かを意見したとて、ソクラテスが道すがらの通行人に話しかけるシチュエーション下の出来事のように、何かをひとつ断言したとて、ひとつを充分に語りきっているか?と言われれば、そうではないだろう。加えて、誰かが何かを伝える際に、何かの見栄から私見を印象操作される場合においては尚更、提言そのもの自体が信頼できない書き手のように、言葉に対する欺瞞は増幅する傾向にある。主張は、既に過去の形状を止めることがない、流動的な何かである。
とは言え、我々が日常的に言葉を使用する以上は、その誤読を恐れてはならないし、同じくらい事物に対峙して、文責として正確さを磨く必要がある。慢心と横柄さが紙一重であるように、言表したものがあたかもそれであるかのように錯覚する罠と紙一重の関係に存在する。
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ところで、高校3年の1年間だけ、新しく赴任してきた先生が行う現代文の授業を履修していた。一般的よくある、教科書を朗読したり、黙読したり、筆者の意図を述べよ、というような勝手の授業ではなく、むしろ、教科書はほとんど全くと言って差し支えないほど使うことはなかった。
何をしたか?という話だが、まず、初回の授業で紹介もなく真っ先に黒板へ書かれたのは『言葉とはなにか』。この一言だけである。要約すれば、まず、言葉そのものの原理が分かってなければ、本質的な意味として理解するには到底及ばないだろう、という意図である。
言葉には、シニフィアン(表面的な言葉そのもの)とシニフィエ(言葉自体の意味内容)が存在し、文章は、ひとつの言葉がそこへ書かれないことには始まることがない、記号の集合体である。つまり、この無意識的に我々が行っている言語活動そのもの・言葉の組み立て方を、まず真っさらに解体した上で、ひとつひとつ体験する事から始めよう、という話である。これを1コマ1コマ丁寧に時間をかけて実践していく。恐らく、これが今まで受けた教育の中で、最も教育と呼ぶに相応しいものだったと振り返る。
ある意味で、我々は何かを型通りに実行する行為を、義務教育過程で意識せずとも身につけてきたきらいはある。それは察しの心情と思いやりの考え方からやってきた結果かもしれないが、本当にそれだけだろうか?現在においても、必要以上に人の目を意識しすぎて同調する事を強いられてはいないだろうか。かと言って、アナーキーになれと推奨するわけでもなければ、奇を衒ったり無作法者になれという事でもない。必要なのは、バランス感覚を養う事であり、その範疇で、凝り固まってしまった慣習を見直して、善処する事に他ならない。つまり、同じような轍を踏んで停滞しているならば、それは事象に対して方法が適していないという事になる。しかしながら、残念な事に一方的な解釈で二の足を踏んでいる事態は五万と存在する上に、外部にその要因を持ち込もうと躍起になった結果、内省がまるで機能しない類の暴力も散見される。
話を言葉に戻そう。
人生は待ち合わせです。陳腐だとはわかっていますよ、ムッシュー。ただ、いつ、だれと、どのように、どこで待ち合わせているのかを知らないだけなのです。そこで、人はこう考えます。もしあれじゃなくてこれを言っていたら、これじゃなくてあれを言っていたら、もし早起きせず寝坊していたら、寝坊せずに早起きしていたら、今日のわたしは少しだけ、気にもとまらないくらいに変わっていたかもしれない、と。あるいは同じだったのかもしれませんが、そのことはわからないでしょう。でもたとえば、わたしがここで身の上話をして、謎かけをもちかけてはいなかったかもしれません。
この謎かけに解答はありません。というより、とうぜん何らかの解答はあったことでしょうが、わたしはわからないでいます。こんなふうに、ときどき、たまにですが、一杯やりながら、わたしはこの話をだれか友人に語って、こう言うのです。きみに謎かけを出そう。きみはどうやってこれを解くかな。
ところで、どうしてあなたは謎かけに興味をおもちなの? 謎解きが好きだから?それともひょっとして、他人の人生を観察する、むなしい好奇心から?
待ち合わせであり、旅なのです。これもまた陳腐ですが。とうぜん、人生のことです。どれだけ言い古されてきたことでしょう。そして、大きな旅のあいだには、さらにまたいくつかの旅があります。それらはこの惑星の表面における、わたしたちの無意味な道のりです。ところが、惑星は惑星で、旅をしているのですよ。でも、どこへ? ーーすべては謎かけです。
(アントニオ・タブッキ『とるにたらないちいさないきちがい/REBUS』和田忠彦訳、河出書房新社、2017、p.42-43)
言葉を真っさらな状態から書き始める時のように(ある程度のアタリは付けるかもしれないが)始めから一字一句完成されたものは存在しないだろうし、ましてや、多くの物事は正解が決まりきっている方が、むしろ相当に少ないだろう。言葉もまた、旅のようであり、ある種の巡り合わせに他ならない。その人にとって、本当に必要な言葉な場合もあれば、今はその時ではなかったり、不必要に思ったりする事も少なくはない。これもまた、偶然に待ち合わせ、巡り合わせた何かであり、旅のようなものである。謎かけのようにオチがあるとも限らない。我々はただ、遊牧民のように、あるいは旅商人のように、次の目的地へ向かって粛々と移動するだけである。