魔法使いの弟子、後々のトラ

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2015年に書いたジョルジュ・バタイユ『魔法使いの弟子』を大まかに通読して考えた文章が出てきたため、備忘録として転載する。一部、語句の用法を誤っていた部分、論理の飛躍があった箇所のみ追記して訂正した。

  

ほぼ本文の内容からは外れていることを注釈として付け加えておきたい。

  

本能的な行動に関わるものや、それに極めて近しい生々しい感情は、自らの抱えている生や実存や品位を脅かすことになりかねないが、時としてその生を強固なものとし、狭窄した視野を広く拡張する力を有する。

人間の最も強い感情は憎しみでその次が愛情だという話があるが、憎しみが外的要因への排除の感情であるのに対し、愛情はその外的要因を受け入れる感情だと言える。外的要因を締め出し排除する感情は、自らの心身からから切り離されたものであるため、突如現れた虫を殺すように、自己の恐怖心、つまり恐怖感を扇動する対象を排除することで安寧を齎す。それは、人間の根源的な生存理念(心理学においてはこのことを生存欲求と呼ぶが、安易に欲求や欲望という語句だけで捉えられる話ではないと考えるため、ここでは理念としておく)に準拠した、生存戦略としての手段であり、古来からの知性に基づいた直感である。それに対して後者は、恐れの対象になりかねない外的要因を受け入れ、対象を自らの意識下へ新たな部品として再編成し、自らの生の中で機能させる対極の生存理念である。その純真たる外的要因を取り込む作業は、あまりに無垢かあまりに理知でなければ成し得ないだろうし、感情に支配された状況(例えば生きるか死ぬかといった根本的な生命維持が揺らいでしまう状況)では到達できないひとつの感情ではないだろうか。

爬虫類脳、動物脳、人間脳と称される脳の発達過程に見られるよう、人間的に生きるためには理性や知性的な思考能力が必要であり、それに忠実に従属すべきだという見解がある。しかし、各々の脳の器官が覆いかぶさって発達を遂げているように、感情器官、反射器官が根本にあり、我々の身体の中ではほとんど無意識的な働きとして水面下で機能している。人間的であるとたらしめているとされる理知において、人を人たらしめている要素は、あくまでも動物性と人間性の両義的なバランス感覚である。そうでなければ、極端な例を言うならば、機械の脳が生命倫理を判断した結果として、合理的な殺害が許容し容認されかねないだろう。安易にそのような理知の部分のみに生きようとして、それらの動物的とも言える器官を締め出すのではなく、それらを許容したうえで、人間的な博愛の感情を信じたいと思う。

   

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ちなみに、インターネットの障害のひとつに『魔法使いの弟子症候群』というものがある。この由来は、ゲーテの詩『魔法使いの弟子』とディズニーの話が元で、ゲーテ版の魔法使いの弟子が示す内容としては《魔法や技術の力が、それを行使した賢くない人間にそむく》といった話である。仏教の本生譚(ジャカータ)には、釈迦の前世でありヒトとして生を与えられた人間の弟子が、師匠から対抗の呪文を教わっていなかったため、呪文で生き返らせた虎に喰われて死んでしまう話があり、この話はしばしば文学や民俗学の引き合いに出される。それとは別に『捨身飼虎』という、飢餓状態の虎の母子を哀れに思って虎の餌食となるため高台から身投げした生前の釈迦を描いた経典がある。この虎の話においては、釈迦というある種の人を超越した存在を描く過程で、ヒトと動物との獣的な過ちについて引用しているが、現代に解釈すれば、自己実現の過程で我々が見落としがちな欠点を解いた話として読むことができる。人の内面の荒々しさは、時として虎の威を借るようにして、あるいは、虎になぞらえて表現される。

自意識という軸の中であるが、内面の獰猛な虎がもたらした結果について、文学的回答として頻繁に示される『山月記』を書いた李徴もまた、《人は誰でも猛獣使いである》と述べ、適切な自意識と自己認識との距離感の測り方を解いている。即物と虚栄のもとにおいては、ちびくろサンボの虎として、やがて虎は暴走してバターに至り、ホットケーキとして卓上に添えられる。中国薬学の古典である宋代『図経本草』おいては、虎の骨は漢方薬になると信じられており、今日においては虎骨としてその名残を見せている。薬学のpharmacyの語源であるpharmakon=《薬でもあり毒でもあるもの》という言葉の通り、毒を以て毒を制するように描かれる虎もまた、ある種の薬学的な効能を持つ側面もあるのではと、バタイユの感想を振り返りながらその過程で思い出した話と接続した。

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