
落ち着きがない。風がビルの間を威勢よくすり抜けていくように、何もかもが目まぐるしいし、自制も少し効いていない部分がある。昔から、というわけではない。ここ1年半、流れ着いた岸辺から対岸を見ながら、家路をあれこれと探すことに必死なくらいには、吐かれる物量と情報収集と行動に対する決断の速さの各項目において停滞知らずである。しかし、止めるための竿が水の速さに対して明らかに追いついておらず、流され続けている状態にある。
落ち着きのなさはどこからか?と問えば、あれこれと、ひどく長い事件事故の話を語らなくてはならないが、取るに足らない話のためこれについては割愛する。
現在の停滞を許さないような動態そのものに対して、事件事故によって止まった時間を取り戻すための行動結果として現在の状況が存在しており、治療回復のための必要なプロセスの最中にいると受け止めている。
行きすぎた肯定と一見解釈されがちな態度について。事情を知らない誰がやってきて、その態度に対して懐疑的に思い、時には苦言を呈する。誰だって自分の物の見方があり、そこから見出された理念に従って暮らしていたり、ときには、それ故に正義を振り翳したりしているかもしれない。しかし、内省よりも前にまず肯定=受け止める理由としては、内省そのものが行き過ぎた結果として、自分自身に対する破壊工作の企てを、肯定的な態度を示す彼らが過去に繰り返し何度も起こしている可能性が十分にあるからだ。
内省という機能は、行き過ぎれば自己を破壊せしめるほどの強力な威力を発揮する。その最たるものが精神疾患や自殺と呼ばれるものだろう。生きている時間のうちの2/3の割合でインターネットに身を置いた生活をしていると、身近では到底知り得ない世界線の人と巡り合う。その中には、気をおかしくして心身の状態が戻らず、隔離病棟への入院を繰り返したのち、信号のようにしか言葉が発せなくなった人もいたし、社会のゆらぎの汀で辛うじて自らの形状を保って過ごしている人々も少なくない。太陽の明暗のように、誰しもが明暗をうちに抱えて日々を調律しながら過ごしているし、遠い海の話ではなく、誰だって普遍的に起こりうるような、地続きの話である。
精神医学の領域で使われる臨界点という言葉の中には、人を人たらしめるものを何かしらに変化させ、狂気の渦の中に引き摺り込むような底知れぬ深さを、言葉自体に内包しているように思う。人が人でいられるために、彼岸から帰ってこれるかこれないかの臨界を見定め、精神の生命を診るという意味では、肉体も精神も同じ質量の比重を持っていると感じる。恩師である医学者の内海健氏が『狂気から人を引き戻すのは、呼名と痛みである』と述べた内容が、この臨界点を行き来する現象と巡り合わせるたびに、よく我が身のこととして思い起こされる。
我々がそのような臨界点の満ち引きのペースに対してできることといえば、ただ見守り寄り添うこと、寄り添いを示すこと、救難信号を受け取り身動きが取れるようにすることが、結局のところ最善の道であるように思う。無碍にズカズカと干渉してしまえば相手にとってトラブルに発展するような要因を、意図しないうちに生み出してしまうことだってあるし、状況をさらに悪化させてしまうことだってある。現にそのような惨状は至るところで起きているし、全員が全員みな困窮者に対して善人であるとも限らなければ、全員が適切な表現方法を知り得てその手法を有しているとも限らない。とにかく正解そのものがないのである。とはいえ、関わる上での多少の摩擦は必然であるものの、そのなかでしか知り得ないことだって十二分にある。その摩擦の中で、ひとつの感覚を共有できるのであれば、それに越した幸せはないだろう。
(※2021.09 撮影)