私は悩みがあまりに多すぎて、その分言いたい事が山ほどあるし次々と表に出したい言葉が頭の中に浮かんでくるんだけど、それをいざ表に出そうとすると言葉がうまくまとまらなくて、長く時間をかけて文章を考える事になる。
しかも文章を考えてる途中にも言いたい事や言葉が思いついて、どんどん文章も考える時間も長くなる…
丸1日、下手すれば数日かけて、愚痴を言うために時間を使ってる。
他の楽しい事に時間を使ったほうが絶対に良いのはわかってるけど、自分のもやもやした気持ちや辛くて腹立たしくて仕方ない事を話さないまま一人で抱え込むとストレスが溜まってくる。
でも悩みができたり嫌な事が起こるたびに長ったらしい愚痴を言い続けるのか?と考えると、キリがなく途方もない。
かといって一旦悩みを置いておいて他に楽しいと思える事に触れても、肝心の問題は解決せずまたいずれは塞ぎ込むし、報われない気持ちがずっと心を占める。
何もかも後ろ向きに考える自分も自分を追い込んでるし、相変わらず世の中は悪意と歪んだ価値観に染まってて、好きなものも汚されて触れれば傷つく呪物のようになって、居場所がなくなっていき外部は常に自分を追い詰めていく。
八方塞がり、四面楚歌。
愚痴を言っても何が変わるわけじゃないし、すっきりするどころか変わらない現状とますますエスカレートする負の感情に余計に気が塞いでいく。なのに言わなきゃ言わないで発散されず嫌な気分が溜まり続ける。
一度起こってしまったら変わらない事だってあるし、私の悩みにはそういった事も多いのに、変わらない事に愚痴を言い続けて前に進めないで、何が解決するのか?
それに、愚痴を言った所でどこまで人に伝わっているのか?どれだけ言葉の限りを尽くそうと、本当に伝わっているのか、伝わっていないのではないかと考えてしまうのだし、どこまで人に理解されるかもわからない。
でも今までわかってくれる人もいたし、その人達の存在や温かい言葉を私は望んでいた。今も見えないだけで理解してくれる人もいるかもしれない。
それでもまた絶望して悲観的に考えて愚痴を言い続けてしまう。
いくらひどい事続きで何度も絶望させられて愚痴が鬱陶しいと人に煙たがられるからと、社会に歪んだ人々のほうが多くマジョリティだからと、そこにばかり囚われて何も望みがないとか誰も理解してくれないみたいに言い続けるのは、温かい気持ちや言葉を与えてくれて自分を支え続けてくれてる人達に失礼だ。
もちろん自分を絶望に追いやる人々や社会は一番腹立たしい。でも悲観し続けて自暴自棄になって良い出来事を見失っている自分にも腹立たしく思う。
いつか愛想をつかされる。もうつかされているかもしれない。
辛い事があって苦しかったらまた愚痴は言う。でも良い出来事や希望がある事は忘れないようにしないといけない。支えてくれている人達の思いや言葉を無駄にしたくない。
変えられるのは自分の気持ちや生き方だけ。人も世界も自分とは違うのだから、たとえ人や世界が歪んでいてどれだけ変わってほしいと私が思おうと変わってはくれない。それでも訴え続ければ最終的には他人をコントロールしようとしてる、自分勝手だと思われるしね。話がわからない人には訴え続けても本人の意思が変わらない限り、何も変わらないのよ。
ひどい世の中でも、私がうまく生きて前を向けるように、気持ちを濁らせず好きなものを大切にできるように、見方や方法を工夫していくしかない。
愚痴を言う事はもはや強迫観念と化している所があると思う。すっきりしたいから言いたいではなく、言わないとすっきりしないから言わなきゃと考えてしまってる気がする。
でもすでに、言ったって状況が変わらない限りはずっと言い続けたくて仕方なくなるだけで、現実がままならなず何も解決しないしもう悪い結果は戻らない悔しさが無限に続いて、すっきりしないのはわかっているはず。
変わらない事にずっと変われ変われと唱え続けて、叶わず悶え苦しんでるだけ。呪いみたいだ。
私が何か良い事に繋がるアクションを根気よく起こし続けなきゃ、誰かが変わってくれるか良いアクションを起こしてくれる事を待ってたら、何も変わらない。悲観的に考える癖と諦め癖を直して、やれる事からやっていかないと。
私が試行錯誤して実践し続けている工夫が、いつか自分が報われる事に繋がってほしい。
そして、たまには愚痴言わずに明るく過ごせる日が欲しい。