「表現の自由の擁護派」をやめた

にゃるら / カラクリスタ
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公開:2024/8/29

まぁ前々から見切りは付けてたんですが、とりあえず一回理由を吐き出しておきます。

「表現の自由の擁護派」であっても「差別の再生産」をやっていた

これは主にトランスジェンダー関連で思ったこと。

一時期、「トランスジェンダーになりたい少女たち」へのキャンセル騒動が起きていたけど、この時「トランスジェンダリズムの推進派が〜」と言う言論が良く見られた。

正直なところ、私は「トランスジェンダリズム」と言う概念を用いてこの問題を語ること自体、「差別と排除の肯定」に繋がると思っている。ただ、これについては一言で説明することが難しい。

まずトランス排除の文脈におけるこの用語は、当初、「トランスジェンダリズム=TRAsの信奉する思想」と言われ、「TRAs(Trans Rights Activists)の信奉する思想=トランスジェンダリズム」と言う定義で、中身がなかった。

また「Trans Rights Activists(TRAs)」という言葉自体、「Men Rights Activists(MRAs)」という言葉の「もじり」で、この用語は海外における反フェミニズムの文脈で、主に男性側を侮蔑し、侮辱する意図で使われる用語でもあった。

つまりTRAsという言葉自体、元は相手を侮蔑し、侮辱するための用語からの派生で、この侮辱との組み合わせで「トランスジェンダリズム」という概念が使われていた、という経緯がある。

その流れの延長上で、その後「トランスジェンダリズム」という用語には様々な「悪意」がトッピングされ、「この思想は危険だ!」という考えを肯定するために、様々な意味が付加されていった。

これは例えば、「セルフID」制度を「自身が『男性/女性』と言い張ればその様に扱う事を強要される」(実際は違う)とか「トランスジェンダリズムは男性/女性の概念を破壊する」(それが目的ならなんで「性別」移行があると思うの?)とかなんとか。

その上で、この悪意ある概念を用いて「トランスジェンダリズムの推進派が〜」と語ることは、こう言った「悪意」と、それによって歪められた「前提」を肯定することに他ならない。

またこの騒動において「トランスジェンダリズムの推進派が〜」という語り口を用いることは、この概念が孕む「トランスへの悪意」を拡散させ、歪んだ解釈を元に「トランス排除は当然」という「風潮」をも生み出す。

そうなれば当然、こう言った「風潮」が広まれば広まるほど、その「風潮」は「トランスへの危機」となるし、この言論が危険視されることも、また必然となる。

こうなれば、その「風潮」を促進しかねないとされた「トランスジェンダーになりたい少女たち」に対し、キャンセルを肯定する流れが起きたこと自体に、特段、違和感はない。

私自身、いくら自分が性別違和の当事者で、「トランスジェンダーになりたい少女たち」へ不快感しかなくとも、この手の「キャンセル」には賛同しないし、したくもない。

ただ、このキャンセル騒動が「トランス排除と悪意への抵抗」としての側面がある以上、「トランスジェンダリズムの推進派が〜」という言論で「トランスへの悪意や排除の肯定」を促進すれば、当然、その反発は強くなっていく。

つまり、件の書籍のキャンセル騒動については、「トランスジェンダリズムの推進派が〜」という語り口を用いること自体が、さらなる「キャンセルの肯定」を生み出す、という循環が起きている。

そのため、「表現の自由を擁護し『キャンセル』を否定する」と言う目的を達するのであれば、最低でも、この「トランスへの悪意」を拡散する流れに加担しない、という態度は必要だった。

しかし現実はどうだったか。

「表現規制反対派」の目立つ論者は、目先の「キャンセル未遂」に目を眩ませて、この「キャンセル未遂を生み出した背景」に無頓着だった。そして最悪の場合、この状況に「加担」する光景すらあった。

また、人によってはトランスを「表現の自由の敵」と見なしていたとしても、別に不思議でもないだろう。

こうなれば当然、「表現規制反対」と言う云々の前に、自身の属性を排除する言論への抵抗が先に来る。そして当然、己が属性への排除に加担する人々と、志を共にするなんてことは出来ない。

となれば、あの騒動を「トランスジェンダリズム」の概念を用いて問題を語り続ける論者については、「なるほど、貴方たちは『トランス』や『トランスとなり得る』『同志』なんて、どうでも良いんですね」と解釈する他ない。

そうであるならば当然、こちらとしては手を切って関係を断ち、

「表現規制反対?あ、そう。精々頑張ってね。私たちはどうせ敵扱いなんでしょう?」

という態度を取らざるを得ない。

少なくとも、現に私はそう言う立場を取ることを選ぶしかなくなった。そして「表現規制問題」については、もう冷めた感情しかない。

本当、賛同者が減ってよかったね。最悪だ。

「SNSでの悪意」の跋扈が「言論規制」を招く

今回の件では「表現・言論の自由」を擁護するにも関わらず、「SNSでの『悪意ある』言論」へ対抗しよう!という機運すらない点も、彼ら/彼女らから距離を置いた理由の一つにある。

そもそも、誹謗中傷・罵詈雑言・増悪表現。こう言った、「悪意の固まり」でしかない言動であっても、これらは当然、「表現・言論の自由」に含まれている。

この点について、界隈で相当自覚的に振る舞っていた、と言う方は、私が知る限り手嶋海嶺さんしか居ないし、この点に無自覚なことは、「悪意ある表現」によって「表現・言論の自由」へ危機が起きる、という事への無頓着さに繋がる。

どう言うことかといえば、日本では既に刑法における侮辱罪の罰則が強化された、という事があるけど、これも「SNSでの『悪意ある』言論」が跋扈し、結果として苦しむ人が増え、自死する人すら出ていた、という事が背景にある。

私は侮辱罪が強化された事について、「あれだけ酷い『悪意ある言論』が跋扈している状況で、侮辱罪を強化されるなんて当然だろ」と思っていたけど、あの侮辱罪の強化によって、SNSでの侮辱行為に何か変化があっただろうか。

正直な印象として、私は侮辱罪の強化程度では、あの惨状は変わっていない、と判断する。そして事がさらに悪化すれば、「表現・言論の自由」を削ってでも「SNSでの悪意」を止めようとする、という流れが起きるだろう。

さらに言えば、侮辱罪の強化が空振りに終わるのであれば、今度は名誉毀損罪を強化し、情報開示請求もより簡易化し、「SNSからの悪意」に晒された「被害者」をより救済しやすくしよう、という流れが起きる、と考えている。

そして、この「被害者の救済」が「相手を黙らせ、匿名から表へ引きずり出すこと」という側面を含む以上、これが「表現・言論への萎縮」を招き、匿名表現も含め、「表現や言論の自由」をより萎縮させる方向へと作用するのは当然のことだろう。

先にも述べたように、「誹謗中傷・罵詈雑言・増悪表現」は表現の自由、言論の自由の一部で、これらの「悪意」を減らす、という事は、即ち「表現や言論を萎縮させる」ことに他ならない。

正直なところ、私は侮辱罪を強化する、と言う話が出ていた時、表現の自由界隈での「これは言論規制だ!」という騒ぎについて、「そんな事はあたりまえじゃないか。何をいまさら言っているのか」と思っていた。

確かに、侮辱罪も含め、名誉毀損罪などの強化は、ある種の「表現・言論規制」として機能する。しかし何故それが強化される破目になったかと言えば、それは「SNSやインターネットでの『悪意』」が到底、許容できなくなっていたからだ。

私は表現の自由界隈に関して、このことや、この構図に自覚的だった面々は、いったいどのくらい居たのだろうか、と思うところがある。

当時、私が観測していた範囲では、表現の自由界隈はこのことに対し、「侮辱罪への強化」に反対する面々は居ても、「他人への『誹謗中傷・罵詈雑言・増悪表現』を止めさせよう」という事を目指す面々を、見付けることが出来なかった。

無論、私の見ていた範囲が狭く、私が気がついていない、もしくは内心ではそう思っていた方々が居る可能性を、一切否定するつもりはない。

ただ、こう言った「『悪意ある』表現・言論を行使しないようにしよう!」という流れが起きず、ただただ「侮辱罪・名誉毀損罪の強化は言論規制だ!」と叫んだとしても、そんなことは通らないし、世間一般は白眼視するだけだろう。

正直なところ、私は今の「SNSでの『悪意』」が容易に跋扈する現状が続けば、良くて「SNSへの法規制」、悪くて「SNSも含めインターネット言論全体の法規制」が入ると思っている。

無論、これは私が悲観論者であることの影響もあるんだけど、少なからず「今のSNSは酷い。法規制をしてでもなんとかすべき」と思う人が増え、何らかの突破口があれば、一気に規制が進むと思っている。

表現規制反対運動に対して寄与するのであれば、相手に対する攻撃的な態度が何を招き、最終的に何を引き起こすのか。

いい加減、その辺りの自覚ぐらい持ってほしい。

最早、私に表現・言論の自由を擁護する理由はない

私は、かつて東京都の青少年条例問題で名古屋に出向いて署名に参加した過去もあるし、それ以降でも継続的に情報を追い、山田太郎議員に投票するなど、モブとして出来ることへはそこそこに参加してきた。

しかし昨今、特に「トランスジェンダーになりたい少女たち」のキャンセル未遂に関連した言論で酷く傷を負った身としては、最早「表現規制問題」に関心を払う理由がなくなってしまった。

件の書籍では、書籍がキャンセルされかけたことについて、「トランスの擁護者は言論の口封じを始めたぞ!」と盛んに宣伝された。

その一方で、「トランス当事者として声を上げた」側を黙らせようとする動きについて、表現規制反対派が反応する光景は、一切、目にする事はなかった。

無論、私の観測範囲が狭い。もしくは、単に見逃している。その可能性を信じたいけれども、名のある規制反対派ですら「トランス排除」の加担に無自覚だったから、恐らく、無意味な希望だろうと思う。

今、SNS上でトランスの支援者が「トランスとして生きる上での困難」を訴えようものなら、「トランスジェンダリズム推進派」と見なされ、袋叩きにされている。

当事者の困難は、「お前はトランスジェンダリズムの推進者に違いない」と罵しられ、「お前の言い分は聞く必要はない」と言われ、「お前たちは犯罪を隠している」と中傷され、最後には「ないもの」とされる。

つまりこれは、今まで女性表象への放火でも散々起きていた「当事者の不可視化」の問題だ。

そして同時に、今のトランスを巡る言論は、「トランスを如何に黙らせ、排除するか」に注力が置かれ、その抵抗は過激化し、排除の言論も苛烈化を招いている。

もし、真に「当事者の不可視化」に怒りを持ち、「自身の口を封じ、自分たちを黙らせようとする」ことへ反抗してきたのなら、何故、今のトランスたちが「既に黙るしかなくなっている」ことを黙認するのだろうか。

今の当事者性で言えば、私は「黙らない」論者であるし、性別違和を持っているとはいえ、出生時の性別で生活しているから、私にはまだ「発言の自由」を行使できる立場がある。

しかし現実として、性別移行の道中で周囲へ溶け込めるよう努力している中、果たしてトランスを巡る言論へ言及できるか、と問われたなら、恐らくそれは無理だ。

性別移行している途中や、あるいは性別移行を完了して「自己認識する性」で生活していたとしても、トランスが不用意に発言すれば、SNSでは袋叩きにされ、場合によっては職を失ない、生活基盤さえ奪われるだろう。

そう言った状況が構築された中で、今の「トランスジェンダー」に「言論の自由」は保証されているのだろうか。

仮に表現の自由や言論の自由を尊重しようとしているのであれば、この流れに逆らうことは難しくとも、少なからず苦言を呈しても良いはずだった。

しかし、そうであるにも関わらず、現実として、表現の自由の擁護者の内、名のある面々は「当事者が黙らざるを得なくなっている」ことへ誰もが無関心だった。

また、このトランスの困難への理解は、今まで「フェミニズム」や「多様性」の観点から「表現規制」を主張してきた論者の方が、よほど「良き理解者」である、と言う状況にさえある。

そうなってくると、もう大変だ。仮にトランスへの理解度が高い「表現規制派」を頼れば、「トランスはやはり規制派だった」と罵られ、頼らなければ「お前たちは黙ってろ」と暗に恫喝を受け、誰にも守られない。

仮に、そうやってトランスの表現者が追い込まれ、最終的には筆を折る。そう言う事が起きた時、「表現規制反対派」だと自称する方々は、どう行動するつもりなのだろうか。

私は、女性表象の炎上問題が「トランス女性」の表現者に起き、事実なく「トランスジェンダリズム推進の表現規制派」扱いされていたなら、果たして本当に擁護されたのだろうか、と言う疑念を持っている。

私はこう言ったことから、表現規制反対運動に欺瞞を見出すようになった。

同時に、この事は私が本質的に「表現・言論の自由」を最重要視していない、と言うことに気づくきっかけともなった。

そもそも私がこれらの自由を尊重せよ、としてきた理由は「人々の尊厳を守ることができるから」と信じてきたからだ。しかし、現実にそれは単なる思い込みでしかなかった。

今、「SNS=インターネット」な世の中では、人々が「表現の自由」や「言論の自由」を最大限活用し、他人を貶めることへ夢中になっている。

確かに一部の良識のある人たちはこれを咎めてはいる。しかしそんなものは焼石に水で、誰もがあの愚行を止められはしない。

そして、SNSでの悪意から人々の尊厳を守るためには、「悪意ある表現や言論」を行使する自由を奪い、匿名の場から逃げ場のない現実へ引きずり出す必要に駆られる。

つまり、これは「悪意」への表現規制であり、この文脈において、私は「表現・言論の自由」に対する規制を肯定する立場を取らざるを得ない。

つまりはそういうことで。私は晴れて「表現・言論の自由」の規制派となった。

本当、最悪としか言いようがない。


こう言ったことから、私は「表現の自由の擁護者」を辞めました。

私は他人を「不幸」にするための自由、なんて認めたくもないし、欺瞞に満ちた「表現規制反対運動」についても、もう賛同することはないでしょう。

なのでせいぜい、表現規制反対論者は「理想を抱いたまま溺死」して行ってください。

こちらからは以上です。

@nyarla
『輝かしい青春』なんて失かったひと。NEEDY GIRL OVERDOSEのシナリオ・企画に携われた『にゃるら』さんとは別の人です。