色々と整理したいことがあったので書く。
なお、文体に関してはあえて固く書いています。
つい先日、SNSで自分の不用意な発言で相手の逆鱗を踏み抜いてしまい、強い拒絶を買ってしまう事があったのだけど、この時の相手の対応を見て、はたして「自分の感情を自己正当化」ことは妥当なのか、という事を感じた。
まず、今回の件は自分が逆鱗を踏み抜いた、という点については私に非がある。これについては異論はない。また相手には確かな信仰と信念があり、私が踏み抜いた逆鱗はその核心に触れるものだったので、このことによって強い拒絶を招いたこと対しても、異論は一切ない。
その他、その人の信仰と信念に基いた観点から、私との断絶は当然のことであり、これはその人物が信仰者である事を鑑みれば、それこそ当然の行いをしたものであって、その断交自体に非はないと考えている。
よって、私個人としては、今回の事柄について、断交自体への怒りの感情はなく、強い拒絶による断交については残念に思うものの、この結果自体は素直に受け入れるべきだ、と考えている。
……と、ここまでが話の前提。
今回の件で、私が逆鱗を踏み抜いたことによって、その人物の激情を招き、その結果として強い感情の揺れを招いたことについては、申し開きをするつもりは一切ない。
この点については、私に悪意などがあった訳ではないものの、その行為について私に責任があり、その事は甘んじて受け入れなければならない、と考えている。
ただ、その相手方について、自身い強い感情の揺れが起きたからといって、その揺さ振られたが故に発生した「嫌悪の感情」を私へ押し付け、一部自己正当化したことについて、それはあなたの未熟さなのではないか、と思うところがあった。
無論、感情が揺らいだ時に不適切な行動を取ってしまうことについて、私はそれを責め立てようとは思わない。そういった行動を取ってしまうことは誰にでもあり得るし、そういったことへ無謬を求めることは、相手への非礼である、と私は考える。
ただし、その嫌悪の感情を私に差し向けたことについて、相手方が少し落ち着いた時点で、その行為と感情を一部自己正当化したことについて、私には容認しかねる、という感情がある。
そもそも、今回私が踏み抜いた逆鱗は、敬虔な信仰者が忌避すべき偶像崇拝に関することである。
私の知る範囲において、一神教という信仰は「神に服する」ことを第一とする信仰であり、それ以外にかしずくことは、偶像崇拝に当たる、という理解をしている。
その上で私が問いたいのは、では自身の感情と行為の一部を自己正当化することについて、それをどう考えているつもりなのか、という事である。
私は今回の相手方について、その人物が敬虔な信仰者である、と言う感情を持っており、その点から、その人物を信仰者として敬意を持って見ていた。それについては未だ揺らいでおらず、断交された今であっても、その人物への敬意は変わっていない。
また今回の件や、それ以前での交流において、私の方に無自覚な非礼があり、それが積りに積って今回の逆鱗の踏み抜きに繋がったという面もあるだろう、とも考えている。
この点については私にも正すべき事があり、正せるかどうかは別として、そういった行動を引き起してしまった事を内省し、正す努力をすべきだ、ということが、相手方への誠意の示し方だとも感じている。
しかし、それはそれとして、私の方にも相手側への思うところが当然あり、私の中には、敬虔な信徒でありながら、自身の感情に基づく行為を、一部とは言え自己正当化するとは、一体どういうつもりなのか、という感情がある。
私としてはこれ以上、その詳細については語るつもりはない。他者の信仰について、これ以上の踏み込みは非礼であるからである。
ただし、私へ「嫌悪の感情」を差し向ける、と言う形で「手を出した」ことへの報復として、こういった感情を相手方に対し抱いている、ということだけは、異教徒の反撃として記しておく。
以上。
なお、私個人の心情として、私は「去る者は追わず、されど戻ること
今回の件が起きた以上、私は互いに別の道を行くしかないと考えているので、二度と交わることもないでしょう。
暫くの間でしたが、交流の方、ありがとうございました。自覚なく非礼を行なったことについては、申し分けなく思っています。
それでは、さようなら。
貴方の道に、光があることを願っています。