最近のいろんな(主に原爆の)特集の枕詞が「戦争体験者(被爆者)不在の時代」になっているのがあまりに─人間なのだから自然の摂理であるのに─厳しい現実過ぎて頭と心が詰まることがある。そして被爆者自身も、それぞれの終活(語り継ぐこと、資料を引き渡すこと)を始めていたりして、もうほんとに……いなくなっちまうんだという現実が足元まで押し寄せている
果たしてそれからの、〈体験者不在〉の世界を私たちは生きていけるのだろうかと考えたら、自信がなくなってくるのだ。こんなこと言ったら先人に喝を入れられそうですが
生命の限界まで「語り」を続けあるいは限界を見据えて初めて語り始め、また広島市においては市の事業としておこなっている「継承者制度」によって、文字通り命を削りながら「語り継ぐ」ことをしながら当事者自身もまた「戦争体験者(被爆者)不在の時代」を見据えながらぎりぎりまで頑張ってくれてんだよなと思ったら、私たちはどれほどそれに応えて〈これから〉を生きていけるのだろう、と不安になる。少なくとも、せめて目を逸らさないでいること・関心を持ち続けることが最低限できることだと思っているけれど、たぶんそれだけでは足りなくて……
体験者に甘えてきたツケがくるのかもしれないと、自分どころか我々に自信がない。甘えてきたツケ、戦争体験者が身近でありまたそれを見送る現役世代になった自分前後世代の、軽くはない責任を感じているのだ。おこがましいと人は言うかもしれないが。頼るすべが資料でしかなくなったとき、どれほど今のように或いは今より我々は応えていけるのだろう
そう思うと、今の小学生たち(そしてその教授者たち)はよっぽど建設的に、それこそ戦争体験者不在の時代を見据えて自分たちが考えていく主体性を見出しながら学んでいる
私たちはそれを見習わなきゃね、と改めて噛み締めるような、気の引き締まるような気持がした