昨晩、Blueskyにこんなポストをしていた(恐らく半睡眠状態で記憶がない)。
ふと思ったんだけど、私って強さではなく弱さをえがきたいんだなって
〈乗り越えてきた強さ〉や〈強いから乗り越えてこられた〉ってなるものを描きたくないんだということに気がついたら
泣きながら、悩みながら、苛まれながらでも進むものたちを描いていきたいんだな〜って思いました
短編集の話です
今更かもしれんけど
いままぶたの裏側で色々考えてて、そう言えば私ってそういう描き方(?)をしないなみたいなことに気づいた
どこかかなしみや弱さを描いているというか……
我ながら結構いいこと言ってるじゃないかと褒めてやりたくなる。いや、褒めた。
このポストから改めて考えてみると、私が描きたいのは「傷や弱さとの共存」なんじゃないかと思った。ポストの通り、“乗り越えてきた強さ”、“強いから”というものではないし、それによって問題は解決しない。解決しない問題と共に生きていくことを連ねてえがいている。
しかし多くの作品においてはどうしてもシナリオとして「乗り越えた」過程に「強さ」や「感動」という〈気持ちよさ・カタルシス〉が定番であるし、受け手もそういった物語を受容している/しやすい傾向があるというのが自論だ。まあ、そりゃそうだ。わざわざ解決のない、答えもない、つらかったりかなしいことなんか、物語でも引き受けたくはないのが多くの正直な意見だろう。
私の漫画(特に今つくってる短編連作)には、ほとんどそういうカタルシスが含まれない。問題が生じてもハッキリとした解決はないに等しい。それは題材が「今でもなお考え続けなければいない問題・課題」だからでもある。
こういったテーマをわざわざ引き受ける人は少数だろうし、そもそも引き受けたくない人もいるだろう。創作としてだけでなく、テーマに現実を重ね合わせて「答えがないもの」ほど「気持ちよくない」ものはない。それが自分にとって正解か不正解かすら判明しないものなのだから余計にそうだろう。
だがもっとも私が悩ましく思うのは、読者の受容において、創作と現実を分離させるために別の箱に移してしまったり投影先を矮小化することで読者が解決を試みてしまうことがあるといった点である。
こういった部分はどんな工夫をこらしてもコントロールは一層不可である(前提として、読み手のコントロールは不可能である)。それが非常に悩ましく、また作品を通してうまく伝えきれなかったなという反省や、自分の未熟さを痛感することになる。
かといって、「どう感じたらいいの?」という答えの提示を私はしない。持ち合わせてもいない。先入観を持って作品に触れてほしくない気持ちがある。
恐らく私は「傷や弱さとの共存」と共に「今でもなお考え続けなければいけない問題・課題」を提示するために現在の作品集を描いている。「別世界の出来事ではないし、単純な過去でもないんだよ」ということを提示して、各々のなかで考えてほしいという身勝手な願望があるのだと思う。
例えば、私がいま机にかじりついてる間にも起きているさまざまなことが、それは決して別世界のことではなく連続している、そして時間も過去から未来へと連続している。過去は過去だから現在には接続せずどこか途切れている──……いや、そんなことはないのだと思い、考え続けている人生があるからこそ、私は今の作品集をつくっている。短編を描き連ねている。過去から連なってある現在だから断絶はしないんだというのを、ずっと握りしめて描いている。
そういうところを作品を通して伝えられたらよかっ……たなぁと思う。“よかっ〈た〉なぁ”というのは、さすがに私の力不足でそこまでは至れなかったな、とすでに思っているからです。
それを自覚しているから、上記の考えはほんとうにどれも身の丈を知らない机上のハンドスピナーである。
そもそもこういった作品を描いていることが例外なのだ。そう、私は普段(?)はゆるふわ日常ギャグ漫画を描いている人なのである!!
自分語りだが(ずっと自分語りでは?)、一次創作『さんせか』では、敢えて何も目立って提示せず、「そのキャラがそうありたいように」「そのキャラはその人生を当たり前に生きているように」描くことを心がけている。どんなものが好きとか、誰が好きとか嫌だとか、どんな背景だとか。
群像劇なのでより一層、「敢えてバックボーンを掘り下げない」ことを強く意識して描いている。そういった点は現在の短編集に似通う点かもしれない。悪く言えば「説明不足」だ。そしてやはりカタルシスはない。
とはいえこのあたりはテーマによるだろう。少なくとも私の場合は最近のいろいろな漫画への言及は「この短編集に限っては」が付きがちである。
ついでに創作へのスタンスについても考えたので書き記しておく。
もしかしたら、これはなんか思想強くね? 案件かもしれないが、私が昔からずっと強く主張? 意識? している持論がある。
創作者──とりわけ表現において、あらゆる部分において〈自覚的でいなければならない〉ということだ。「なんとなく」とか「流れ」とか、そういう〈無意識で迎合〉をしないことというか。少なくとも私はそう思っていて、表現に対して説明を求められた時に答えられるような在り方でないといけないよねと思っている。創作物に責任を持つというのは、そういうことなのではないのだろうかと。
特に、殊に現代における表現のシーンでは「何故それを描いたのか」について答えられる状態であるというのは必須になっているような気がする。表現に対する責任を持つ必要性が増しているのだ。
たとえ大衆からすると「間違ったこと(あるいはナンセンスであること)」でも、作者として筋を通す、自分の作品のケツは自分で拭くという姿勢は示せるようになっていたほうがいいと思っている。
しかし予想外ということはどうしても存在する。先に書いたように、読者はコントロールできないからだ。作品がどう受容されたり解釈されるかを十全に行うことは難しい。アマチュアで対象を広くと考えると猶更そう思う。そういった時に、ああこれは誤ったんだなと気が付くこと、自省すること、認める勇気もまた必要なのだと思う。
特に当事者からの声は重要だ。私も今の作品集で当事者に近い人たちを結果的に傷つけるかたちになってしまったら、頭が埋まるほど謝らなきゃ……。という気持ちである。
……と、いつものように筋道が逸れていったが、そんなことを考えたりした。未来の自分が読み返して「ほーん」と思うだろうから、書き残しておく。