「戦争もの」をえがくこと

コヤマ
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公開:2025/8/15

今日は「終戦の日」だ。もうすこし分け入って表現すると、正午にときの天皇より「終戦の詔」が告げられ事実上日本が敗戦した日である。降伏等に関する調印は9月2日に行われており、国外ではその日を第二次世界大戦「終戦の日」としている。あくまで日本にとっての終戦の日だ

そういう日だから、いろいろな記事もあがってくる。今日もっとも注目して読み共感したトピックスはこれだ

後編の記事中で今日マチ子さんがこう語っている

“作中には「戦争反対、平和万歳」とは書いていないのに、戦争ものというだけで反戦のメッセージを読み取られてしまいます。私としては、読者自身に答えを出してほしいんです。「こう思うべき」とは誰も強制できない。もちろん私だって戦争は嫌ですし、起きてほしくはありません。でも、作品に自分の主張を乗せたくはなくて。”

対談相手の武田一義さんもこれら一連の会話を受けて、困ってしまうことや作品はまっさらな状態で読んでほしいと答えている

記事を読んでいてそういえば、と思い出した。『平凡倶楽部』においてこうの史代さんも同じようなことを書いていたのだ。「戦争を描くという事」というコラムにおいて、『夕凪の街 桜の国』が「反戦もの」として捉えられたことにひじょうに驚いているのである(筆者としてはあくまで「原爆の後遺症」について描いていた)。このエッセイ・コラムは一読の価値があるのでぜひ読んでみてほしい

私自身も現在「戦争もの」を描いている。確かにそれというだけで反戦マンガだと思われるというのは私も避けたいところだ。安易な「戦争反対、平和万歳」はかつての「降伏反対、天皇万歳」につながるような気がして、極端さがあやうく感じられるのである。「表現をすげ替えれば(イデオロギー的な)意味合いが変わってしまう」という歴史ものは、描きたくない。イデオロギーのために漫画は描いていないけれど、これだけは譲れないなぁと思っているところかもしれないと考えた

それぞれさまざまな作品を通して、読んでいる人知る人自身、読み手である個々人ががそれぞれ考えることであってほしい

現代の人は「考えること」に対してとても受動的だと日頃から感じているし、自分の作品やそういった「戦争もの」の〈消費〉のされかたで痛感させられることが山ほどある。ムッとしてもらうならまだいい。それでも自分で考えを持つことが怖いとか難しいとか、敬遠されることのほうがよっぽど堪える。「考えること」というのは何か大きく掲げられた旗についていくようなものではない。しかし表現する側が「どうか自分で考えてほしい」と作品を世に送り出すと、やはりどこか、視線が不自然にうろつくようなぎこちなさという受容を感じる

だが、やはり「作品のメッセージ性についていくのではなく」、「自分で考えてほしい」のだ

考えることがエネルギーを要することなのはわかっている。だが、考えることをやめてしまうというのは、いくら平和を望む作品を観て共感したところで「別に私は平和をつくらなくてもよい」という結論に導かれる。どこかの誰かがやって考えてくれること、という思考から脱却しなければ。

普段からそう考えているので、この対談は個人の思想としても創作者としてもひじょうに共感しながら読んだし、この考えを記事に残しておきたいと思った。ぶっちゃけ、こういうことを語ってしまうと「イデオロギーのために漫画を描いてない、フラットにしたい」という願いは吹き飛んでしまう野暮なことなので避けたいのだが。しかし何も発言しないというか、この機会にしっかり書き残しておこうと思った

ところで、エアコンの修理が遅くとも週明けにくるようである。助かった