長年の不調に耐えかね、生理をなんとかしてみようと婦人科へ足を運んだ。
婦人科ーそれは主に女の人の為の診察科目である。
おんなであることを自覚的に受け入れなければならない。
病院の表構えや待合室の雰囲気に救われる。手首にまいた、先日手に入れたレインボーチャームのブレスレットが目に入る。クマがかわいいな、と珍しく購入したアイテムだった。我が町は性の多様性をかかげる町である。その一方、これといって大きくは取り組みが目立つことはないように思う。せめて目に入る誰かの連帯になればという思いが購入のきっかけであった。そのクマに、いま一番に励まされているのは誰でもなく自身であった。わたしはおんなである自覚があまりない。だいたい1年半タームでなんとなくゆれたり変わったりもする。それでも、変わらず鎮座するものとして、わたしの身体の中には生理を司る臓器があり、乳に脂肪は多く蓄えられ、月1程で股座からの出血がある。
さいきん、スペイン語を学んでいる。女性名詞や男性名詞があるが、一方、そこにはドイツ語などではみられる中性名詞や冠詞がいまのところまだ見当たらない。性に曖昧でいたい、たとえば積極的に自身の身体的性別を肯定できない者が、足の裏をつけて両の足で立つ大地が、いっそう少ないのかもしれない。現代への興味は勿論、歴史というか、過去や今までのことや立ち位置、出来事、どうなっているのだろうか、という興味が湧いた。ないことへされる圧は、目に見えていっそう大きいのかもしれない。わたしがずっと息をしてきた日本の土地では、みえないこと、ないことにする行為が日常的に多い。そのような文化圏だと肌でなんとなく思っている。それも踏まえて、一概になにかを比べることは出来ないのであるが。
閑話休題
だれかのためになることというのは、えてして自分を救うものにもなりうるもので、その逆もまた然りで。普段は、自分や特定の人の為になることは、ひいては他の人のためにもなりうるという考えの下、思考することがおおかったが、その逆のパターンに図らずしも救われた1月の末であった。
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24.01.30.