満八十九で祖父は死んだ。
曽祖父は九十四まで生きたから、きっと母方の家系の男は長生きらしい。(女はそうでもなさそう)
さて、そうなると、一人っ子である私の母が色々な手続きやら、後片付けやらを担っている。三人姉弟の私も弟も結婚して家を出て、母は歳の離れた末の妹と二人暮らしになった。父の存在は、もう無くなった。
私が十三の時、父は突然家から消えた。
子供の私からして、そう見えただけであって実際は色々な準備がなされていたのかもしれない。円満な家庭とは程遠く、私は父と母の仲睦まじい様子を見たことがなかった。父はいつも寝ているか、ガレージで車を弄っているかの人で、年に一度の家族旅行で車を走らせる以外に遊んでもらった記憶も殆どない。そんな父はいつも煙草の匂いをさせ、コーラを好み、家族経営の仕事を、いつの日か辞めた。父が消えてから二十年以上が経つが、声すら聞かずに時が過ぎた。
父は死んだと思いたかった。
とにかく、私はあまり可愛い子供でなかったのだろうと、今になっては自覚する。中身は幼いくせに口が達者で生意気で、大人の話に首をつっこみたがる。自分が可愛いばかりの子供だった。
父に泣かされた母は、よく弟に縋った。私は父と同じだったのだ。
母には選ばれない子供だったと思う。幼いながらにそれが分かっていたから、いつも母からの愛を欲していた。高校生になっても、私は母に抱っこして欲しいとせがんだ。
父が、部屋に何も残さずに消えた時、私は母に何も聞けなかった。もう、ほとんど壊れて骨組みが見えているような家を、これ以上壊すような事になってはならないと思っていたからだ。母は言った。
「お父さんが居ないことを、他所で喋らないで。」
大人になればわかる。きっと、お喋りで生意気な私が、誰かれ構わず家の内情を話して回る事を阻止したのだ。
しかし、十三歳の私は母の教えを守り抜いた。誰にも他言しなかった。父が別れの一言もなく家から消えた事、そして自分の戸惑いや不安や、寂しさを、どこにも出さずに閉じ込めた。父を存在させたのだ。
母が思うよりもずっと子供だった。他の十三歳よりも幼かった。
母に捨てられたらもう終わりだと常に怯えていたし、私よりも母の方が辛いのだから、他の全てを我慢しなくてはならないと本気で思っていた。部活動を諦めた。大学も諦めた。新卒でありついた就職先で父親が居ない小娘だと知られると、態度の変わる人間を山ほど見てきた。唯一の男手である弟と、まだ幼い妹が下に居る。誰からも何も言われなかったけれど、少ない額であったが家にお金を入れ続けた。パワハラセクハラ、心は結婚と引っ越しで退職するまで麻痺したままだった。
自分ばかりが不幸で辛いなんて思わない。楽しい事も素晴らしい事もたくさんあったし、実際、母だって修羅場続きの人生だっただろう。専業主婦で子供を三人抱えて。
そして今、優しかった祖父が死んだ。
祖父は私を名前で呼ぶ。母を含め、他の大人が殆ど皆、「お姉ちゃん」と呼ぶ中で。私はそれがやけに嬉しかった。
周りは皆、口を揃えて私に声を掛けてくれる。「お母さんを支えてあげてね」と。
あたたかな気遣いと好意をありがたく頂戴しながら、どこにもやり場のない気持ちを吐き出せずにいる。私が父を失った時、誰も、母すらも、私を支えてくれなかったのに? 祖父が死んだ今、私はいよいよ、父親という存在が無くなった気がした。
祖父が死んで、私は母の方を、目を逸らさずに見なければならない。そして向き合うという事は、自分も見られると言う事だ。怖くて仕方がない。
貴女に傷付けられて、今もずっと生きるのが辛い。それを伝えずに見送るか、死ぬ事が、私のひそかな親孝行であり、仕返しである。