姉のお見舞いに行ってきた。
甥の車で。義兄の運転で。私は会いに行っただけ。こういうとき少し気まずくなる、お客さんな感じがするので。
ちょうど着いたタイミングでHCU(高度治療室、ICUと一般病棟の間)に移るところだったらしい。それだけ容体が安定したということだ。とても嬉しい。
コミュニケーションも取れた。頷くだけだが、文脈の通った頷き方をする。
「◯◯姉さん(長姉のこと、私と姉は彼女を嫌っている)も来るよ」と言ったら顰め面をしていた。姉らしい表情で笑ってしまった。間違いなく言葉はわかっている。
人工呼吸器のレベルも下げたらしい。たまに痰が詰まって苦しそうだったが、それも少しすると落ち着いていた。
ただ、右足が一切動く気配がなかった。麻痺は残るかもしれない。リハビリ次第だ。義兄は帰り際に介護タクシーと介護施設のパンフレットをもらっていた。
面会が1日に2人までと限定されているので、甥と私が入って義兄が入れなかった。義兄も来ているという話をし忘れたと言うと、「おいマジかよ、退院してから殺されるぞ俺」と嘆いていた。
思ったよりは明るいムードで終えられた。私も気分が落ち着いた気がする。
余談。甥の車について。新車で300万円弱。スムーズに走るいい車だった。労金のローンで7年払いだそうだ。稼いでるなあ。私よりもはるかに高給取りだが、酒と煙草とカードゲームに溶かしているらしい。
都内で車を持つのは大変だ。税金も高いし、何より駐車場が高く付く。それでも姉一家が住んでいるあたりは車がないと生活が不便なので、金を惜しんでいられないという事情がある。
よく稼いでよく使う甥は立派だ。少しだけコンプレックスを刺激される。仲良くしたい気持ちはあるが趣味が合わない。ほどよく親戚付き合いを続けていければと思う。
ガラリと変わって選挙の話。
東京都議会議員選挙に行ってきた。直前まで誰に投票するか悩み、最後も苦渋の選択を強いられたような気分だった。
私にとっては本格的に政治を勉強しはじめてから初めての選挙だ。漠然と党で選んで票を投じていたころとは見えてくるものが違いすぎて、脳がパンクしそうになった。
党を見る。最近立ち上がったばかりの党が増えたなという感じがする。そういう党ほど耳障りのいい公約を打ち立てているが、実現能力がどこまであるのかが懸念点となってくる。
公約を見る。ポピュリズムに走っているなと感じるような候補者もいれば、中位投票者定理に頼っているなと感じるような候補者もいる。中には固定の支持基盤だけをターゲットとして割り切った候補者もいた。
実績を見る。公約実現能力を測るのは大事だが、実績だけを見ると新人がいつまでも入らず、腐敗していくという問題がある。とはいえ、在任期間が長い割に実績がないと能力に疑いをかけたくもなる。
自分は都政に何を求めているのか。そう考えているうちに昨晩は眠ってしまった。
最終的には実績で選んだ。社会的に見れば私は弱者でマイノリティだ。そういった層にアプローチしていて公約を実現している候補者がいたのでそこに票を投じた。とはいえ、公約が大言壮語なので期待はしないでおく。
間接民主制における選挙とは「理想の代表者を選ぶゲーム」というよりは「どこまで妥協して代表者に責任を押し付けられるかのゲーム」なように思える。つまり、消去法で一番マシな候補者を選ぶ必要がある。
しかし、この「一番マシ」というのが厄介で、リテラシーがないとポピュリズムに走った候補者に釣られる。実際私も少しグラッとした。
公約、実現能力、党派性、個人のイデオロギー、そういったものを加味した上で自分にとって一番マシな代表者を選ぶ必要がある。
これがストレス社会と致命的に相性が悪い。悩み、苦しみ、決断するというのは現代人が何よりやりたくないことではないか?
さらに言えば、政治家という稼業ももはや期待できるものではなくなった。心身ともにすり潰すような仕事であるにも関わらず、もはや政治家は尊敬される立場でも、甘い蜜をすすれる立場でもない。
今や政治家をやるくらいならAIベンチャーを立ち上げたほうが尊敬されるし、稼げるだろう。労力の比較は簡単にはできないが、どちらかをやれと言われたら私はAIベンチャーを選ぶと思う。
そういうわけだから、政治を学べば学ぶほど思う。間接民主制は資本主義と相性が悪い。間接民主制を適切に運用できるほど人類は成熟しきっていないのではないか。
新しい経済システム、必要に応じて働くのではなくやりたいことに応じて働くシステムが成立して初めて、人類はやりがいだけのために働くことができるのだと思う。
ただ、ないものねだりをしてもしょうがないから、せめて私は理性的な市民でいたい。もっと政治を勉強して、今日以上に考えて政治に参画できるようになりたいものだ。