2023年の12月に、関西と関東の二拠点生活に終止符を打ち、東京に落ち着いた。東京は良い。便利だし、何より以前住んでたところよりも気候が温暖だ。たくさん持ってきたヒートテックにはほとんど袖を通していない。皮下脂肪を多く蓄えているせいで厚着が苦手なので、下着とセーターと軽めのダウンさえあれば良い。マフラーも、手袋も、耳当てもいらない。カイロだって不要だ。
寒くないということは素晴らしい。太陽は偉大だ。
若い頃は冬のヨーロッパを中心によく旅をしていたが今は日照時間の少ない冬のヨーロッパなんぞ行きたくない。常夏の、南国に行きたい。太陽、海、トロピカルフルーツ。気温や天気がこうも心身に影響するなど若い頃は思ってもみなかった。
私は現在、ある意味で人生の長期休暇中である。昔のように0時近くまで働くこともなく、〆切に追われることも(ほぼ)ない。めっきりレッドブルも飲まなくなった。仕事という大きな潮流から離れたところでぷかぷかと一人で浮いている。
朝起きて朝食を準備し、夫を仕事(潮流)に送り出したら洗濯を干し、眠ければ寝る。お腹がすいて目が覚めれば、行きつけのお店ではランチのラストオーダーの時間だ。化粧もおしゃれもせず、無印良品のセーターとパンツという最低限の格好でお店に滑り込みいつも同じメニューを頼む。店員さんにも顔を覚えられいる。化粧けのないおばさんが昼間から生牡蠣と白ワインを一人で平らげているのだ。「働きもせずなんと優雅なことか」そう思われてそうだ。まぁ、実際にどう思われているかは知らないけれど。
この「働きもせず〜〜している」という罪悪感はどうしたら消えるのだろうか?誰が植えつけたんだ?そもそもどうしてこんな罪悪感を抱えながら私は生牡蠣にレモンを絞っているのだろうか。楽しいことをしているはずなのに気持ちが落ち込んでいくのがわかる。白ワインのおかわりを頼んだら店員さんが「まだ飲むのかこいつ」とでも言いたげに見えたが丁寧な手つきでグラスになみなみ注いでくれた。まだ飲みます。早くレジを締めたいだろうにすみません。
すみません。働きもせずすみません。
そう謝ってばかりいる。誰に?周りの人々に。社会に。
厳密に言えば働いてないわけではない。ありがたいことにフルタイム出社しなくても最低限の収入が得られるようにはなっている。でも、所謂「フルタイム週5出社!満員電車!保育園お迎え!etc.」というような目に見える形での「働き」をしていない。したくないからだ。したくないから、していないのだ。よかったじゃないか。
ゴミ収集日の前日には家中を掃除し、本当は嫌いな排水溝周りも徹底的に掃除する。冷蔵庫の残り物を処理し、家中の植物の手入れをする。ほつれたソファカバーを繕って、掃除機の掃除をする。仕事関係のメールを返して、夕食の準備をする。
生活をしている。生きている。
それだけで十分偉いとわかっていながらも、心のどこかでこの長期休暇に後ろめたさがある。メロゴールドの皮を剥いて、丁寧に実だけを取り除く。ふわふわの白いところに指を差し込んで、その触感を楽しみ、果汁でベタベタになった手を洗い、ぷりぷりの果実を頬張る。食べ終わった後に、夫には少しも残さず全部食べてしまったことにまた罪悪感を抱いていた。また剥いてあげればいいじゃないの。自分に言い聞かせるも、なんだかハッピーにはなれない。
この休暇も今月で終わる。はぁ。それはそれで億劫だ。なんなんだ。働きたいのか働きたくないのか。いや働きたくはない。不労所得はほしい。けれどきっと不労所得を手に入れたら罪悪感で死んでしまうタイプの人間だ。
難儀なこっちゃで。