出ている。あの東京に。ニュースもそればっかりだ。八王子あたりの雪の様子をしきりに生中継している。しかし関西出身の私は八王子がどの辺なのかいまいちわからない。声優の森久保祥太郎さんが八王子出身なのは知っている。推しだから。
不要不急の外出を控えるようにと言われている中、私は急用ができて関西の実家に帰らざるを得なくなった。なんでやねん。二日前の日記で、やっと拠点を東京に移したって書いたやんけ。カッコつかへんがな。ぶつくさ独り言ちながら朝からバタバタと家中を掃除し、洗濯物を回す。明日は燃えるゴミの日だから夫に絶対忘れるなよと念を押したLINEを送り、やっと自分の荷造りだ。冬服は嵩張る。実家は田舎の古い家のため暖房がほぼ効かないので、なんとしてでもごっつい服を持っていかねばならない。ついでだし東京では必要なかったヒートテックもスーツケースに詰めた。
積雪で新幹線が動かなくなるかもしれない、そんな不安がちらついて気もそぞろだった。お昼も食べ損ねた。ああ、植物たちの水を換えてやらないと(夫は言わないとしないだろうし)。2週間ほどの帰省になりそうなのであれこれ考えながら水耕栽培しているポトスの根を洗う。実家に帰るのは色々と億劫で、ため息が出た。とにかくぎゅうぎゅうのスーツケースのファスナーを閉め、家を飛び出る。
「雨やんけ」
百歩譲ってもみぞれ。雪ちゃうがな。
何をピーピー東京の人はこの程度で…と文句を飲み込み電車に乗る。まだ昼の3時過ぎだったが山手線が激混みである。おそらく会社や学校が雪のために早く切り上げて帰っている人たちだろう。あとで新幹線で食べようと、冷蔵庫に一つだけ残っていた消費期限切れのいちご大福をポケットに入れて出てきたことを思い出す。このままでは潰れてしまう。とちおとめが潰れてしまう。私は乙女を守るために必死で息を吸って、そして止めた。息を止めたところで私のぶよぶよの体積は減らないのだが、乙女を守るためにそれしか思い浮かばなかった。人間は無力だ。
やっとのことで新幹線に乗り込んで指定席に座ると突如襲いくる眠気。シートの温かさ、適度な振動はさながらゆりかご。それらに抗えず、私はいつのまにか眠っていた。最近SNSでよく見るいびきをかいて寝る猫ミームそのものである。
はっと目が覚めたら降りる駅のちょうど一つ前だった。あぶないとこだった。ふとポケットの乙女について思い出し、取り出すとちょっと潰れていた。お腹が減っていたので、ビニール包装を破って頬張るといちごのジューシーな果汁が口の中に広がる。ちょっと舌がピリピリしたが、やっぱりいちごはとちおとめだ。昔友達と訪れた栃木でいちご狩りをしたことを思い出す。その時から「いちごはとちおとめ」と私の脳にインプットされている。私は愚かなので、それ以外の品種のいちごを食べても特段美味しいとは思えないアホ舌だ。そのとちおとめを上品なこし餡とやわらかい牛皮で包むだなんて天才的。しかもバレンタインシーズンのため餡子も牛皮もチョコ味。最高。至福。
新幹線を降りると東京から帰ってきた人々はこぞってお土産入りの紙袋を持っていた。東京ばななやバタープレスサンド。「お土産の定番だよね〜」なんてにこにこ見ていたところで実家にお土産を買ってくるのを忘れたことに気がつく。やばい。実家につくと玄関の前でおそろしく実家に帰りたくなくなる。もう目の前なのに。老いた父に挨拶をして、自分の部屋の石油ストーブをつけると、しばらく使っていなかったからか灯油の臭いが部屋に充満する。自分が育ってきた部屋なのに、居心地が悪く東京に帰りたくなった。
もう何年も生きていると、みんながみんな親や家族と仲良しハッピーYeahじゃないこともあるってこと、みなさんご存知でしょうし詳細は割愛する。別に仲が良いとか悪いとか、嫌いだとか好きだとか、そういう単純なものじゃないのが家族ってやつだろうし、まぁとにかく、私はこの田舎が好きじゃない。手土産でもあればそれを種に会話も生まれるだろうが、唯一のいちご大福はさっき食べてしまった。老猫は認知症もあるのか私のことを覚えていないので顔を出してもくれない。空虚な寂しさと灯油の匂いで充満した部屋で、鬱屈な気持ちになっていると、机の上に私宛に届いた郵便物が山になっている。住所変更が面倒くさいDM関係ばかりだったが、その中にA4サイズの小包があった。全く覚えはないが、いつもの癖でバリバリ開封するとゲゲゲの鬼太郎の薄い本だった。私はその本を高く掲げて過去の私を褒め称えた。さっきまでの鬱々とした気分は吹っ飛んでしまい、るんるんで私はベッドに大の字になりその薄い本を読みふけった。読み終わる頃には、思い出したかのように老猫がそばで寝ていた。ああ、やっと。アイムホーム、だ。
スーツケースを荷解きすると、大玉のメロゴールドが3つも入っていた。当たり前だが自分で入れたんだった。すっかり忘れていた。東京の名産でもなんでもない、アメリカ輸入の果物を今夜は父に剥いてあげようと思う。