忘れっぽい男、赤毛のアン

おれは世界名作劇場のアニメ『赤毛のアン』が好きで、この世の全映像の中で最も優れた作品だと信じている。

もちろんモンゴメリの原作小説も持っているし、続編も読んだ。

同作には『アンという名の少女』という現代版のテレビドラマシリーズがあって、これはオリジナル要素が強いのだが、別物としてみても大変に素晴らしい。

アンは孤児であり、夢想家の女の子だ。

紆余曲折あって年配のマリラ / マシュウ・カスバート姉弟 (原作では兄妹だが) に引き取られ、その家で暮らすことになった。

厳格なマリラと内気なマシューは、アンの奔放さに呆れ驚き振り回されながら、次第に彼女へ深い愛情を抱くようになっていく。

ドラマにはそのアンが16歳になり、「自分の出自を明らかにしたい (本当の両親は死んだのか、自分を捨てたのか?) 」と、孤児院へ自分が預けられたときの記録を調べに行くと言いだして、調査に反対するマリラと言い争いになる、というエピソードがある。

マリラがアンの提案を拒んだのは「もし彼女に存命の親族がいて、その人たちがいまのアンの存在を知って引き取りたいと言ってきたらどうしよう」と心配してのことだった。

煩悶するマリラは、アンの通う学校の新人教師・ステイシー先生に相談する。

ステイシー先生は言葉を選び、「いま彼女の心を独占しようとすれば、マリラは永遠にアンを失うことになるだろう」というような台詞を言った。「愛は手放しても減らず、むしろ分かち合うほどに増えていくものだ。だからアンが離れていくのを恐れることはない」と。

その流れを汲んで、マリラがマシュウと共に下すのがまた切実で胸に迫る決断なのだが、ネタバレになるのでここでは控えよう。


とにかく、おれはこのブログや他のSNSで日記や何かを公開していくことで、持ちネタというか、書くべき文章が減っていくのではないかと懸念していた。小説を著す前に頭の中にある語詞を消費しきり、書き尽くしてしまうのではないか、と。

書くことがなくなったらおれはお終いだ。

その日のことを常に恐れている。

だけど、言葉は使ったからといって減っていくものじゃない。そうだろう、ステイシー先生?

より多くを書くためには、より多くを出力をしていく必要がある。

おれはここに何かを書き記すにあたって、思考の整理に役立つだとか、構成を考えるトレーニングになるだとか、そういう風に利口ぶった言い訳を並べたてたくはなかった。やかましい、と思う。見返りを求めて作られたおとぎ話があるものか。

どれほど不毛で、無益で、非生産的な行いかということくらい承知している。

その上で文章を残すのは、ただ他人や未来の自分に読まれるためだ。

重要なことだとわかっているのに、すぐに忘れていつも不安になってしまうから、何度も繰り返し宣言することを許してほしい。


余談だが、おれは同じ世界名作劇場シリーズの『ロミオの青い空』からも強く影響を受けている。

会社勤めをするようになって初めて鑑賞し「世の中にはこんなにも凄味のある物語が存在するのか」と目が開けた。

おれが何を書きたい (あるいは、書きたかった) かといえば現実に抗うフィクションであって、その理想に近付くためにはアルフレドのように『白鯨』を読めるようにならなければいけないと、もう何年も思っているのだが。

@octopus
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