緊急帰宅マニュアル

身体が動かない。

眼球は、動く。瞼を開けていられない。

辛うじて指先も動く。けれどスマホを握って支えていられない。

精神は退屈している。何かを見たり聞いたり書いたり話したりしたいと思う。そのどれもすることができない。

薄めた金縛りを経験しているようだ。ずっと吐き気があって、食べ物を準備したり片付けたり気力が足りなくて、起き上がることにも膨大なエネルギーを消費する。

それでもなんとか平日のリモートワークと週に数度の出社はこなしていた。

だが、そのぎりぎりの生活にもついに限界が来た。


先週の後半、おれは起き上がって顔を洗いに洗面所に向かった。ところが、眩暈。言い表せない気分の悪さ、痛み、息苦しさ。立っていられず、おれはその場に蹲った。

座っていると徐々に回復。数分すると「もう大丈夫だな」という感じになり、そのまま鞄やら何やらを準備して、水を少しだけ飲んで家を出た。出社する日はオフィスの近くの喫茶店で朝食をとることにしている。

玄関を開けると、灼熱。まだ8時だというのに陽は燦々と照りつけ、前日の雨の影響もあってとんでもない湿度になっていた。

その時点で引き返せばよかったのだが、今年転職したばかりで有給の残数が少ないおれは、会社に休みの連絡を入れることを躊躇してしまった。

ふらふらになりながら駅に到着。日陰に入ると多少ましだ。そのまま涼しい電車に乗り込む。席が空いていて座ることができた。

通勤電車の中、普段なら本を読んだりスマホで調べものをしたりするのだが、やはり体調が悪く自然とじっとすることに。眠ることはなかったけれど、目を閉じて時が過ぎるのを待ち、会社の最寄り駅で無事に降りた。

だが、改札を下りた先、駅舎から出るところに階段があるのだが、その段差をおれは上ることができなかった。

足を少しも上に持ち上げられない。動悸がして、吐き気がして、喉が渇いて、極度の緊張状態に陥る。

大勢のサラリーマン。スーツケースを引きずる外国人観光客。アナウンス。

立ち往生。

どうすることもできず、(そこは人通りが多くて邪魔になってしまうから) 一旦脇に逸れて、たまたまあった自動販売機にSuicaを翳してイオンウォーターの小さいボトルを買う。いまのおれには重すぎて、500mlのボトルは持つことができないと判断した。

そのまま近くの柱にもたれ掛かり、イオンウォーターを数口飲む。幸い嘔気はそれ以上強くはならなかった。

会社のビルのある方向を見渡す。おれのオフィスは駅から遠い。おれの自宅も駅から遠い。

タクシーでどうにか会社まで行くか? 辿り着いたところで働けるのか?

無論、タクシーで家まで帰るなんてことも不可能だ。片道の運賃でおれの一日の稼ぎを上回ってしまう。

おれはもう一歩も歩けなかった。

先にも進めず、戻ることもできない。

熱波。冷や汗。

背中のリュックサックに入ったパソコンが重い。足元のドクターマーチンも重い。汗を吸い込んだスーツも。

朝一の会議の開始時刻が迫っていた。

おれはリュックを前に抱え直し、コンクリートの柱を背に、ずるずると地面に座り込んだ。人通りは多いが、駅員はおらず、誰に助けを求めたらいいのかわからない。そもそも誰かを捕まえられたところで何と言うつもりなのか。「救急車を呼んでください」?

多分、そういうことではないというのはおれ自身が一番よくわかっていた。

おれは通りすがりの人たちに奇異の目で見られながら、駅前で屈み込み、スマホで上司に「すみません、××駅まで来たのですが、体調が悪くなり動けなくなってしまいました。今日はお休みさせてください」とSlackを飛ばした。すぐ、上司からは「了解しました」とだけ返信が来る。

上司は全く悪くないが、おれは絶望的な気持ちになった。

誰か、誰も助けてくれないのか。

おれは呆然としながら立ち上がった。杖をついた老人よりも遅い歩みで来た道を引き返す。ゆっくり行きたかった (というかゆっくりしか進めない) のだが、外はあまりにも熱い。立っているだけで苦痛だった。

無限のような時間を掛けて、おれは自宅に戻った。時計を見ると、12時目前。

着替えるなり部屋に冷房をかけベッドに倒れ込む。猛烈な眠気。もうどうやって帰ってきたのかも覚えていない。確かなのは、再び目を覚ましたときには既に終業時刻を過ぎていた、ということだけだ。


あれから、おれはの体調はずっと悪いままだ。

ときどき全く平気になることもあるが、前触れなく悪化することもあり、それは仕事があろうがなかろうが関係なく襲ってくる。はっきりとした原因もわからない。

「毎日スイカばかり食べているからだろう、馬鹿」という声が聞こえてこないでもないが、もはやそういう次元の話ではない。

おれは数年前から (遠くに行くと)「いまここで疲れきったり具合が悪くなったら帰れなくなるのではないか」と考えてしまい、出先でパニックになることが度々あったのだが、今回はその恐れが現実となってしまった形だ。

いったいどうすればこの恐怖を克服できるのか。

それとも、もう二度とかつてのような健康を取り戻すことができないまま、どこか知らない遠くの地で力尽きるのだろうか。

@octopus
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