おれは皆のことが大好きだけれど、愛や感謝を語る奴は全員が善人ぶった嘘吐き、そうでなければ魂も心もないおめでたい奴らだと、白々しく眺めながら鼻で笑って――。違うな。「白々しく眺めながら鼻で笑っている人たち」から何かを言われることを恐れて、さも関心がないかのような顔をしてきた。
嫌味しか面白いものがない町で暮らしていたら否応なくそうなってしまう。自らを認めて誇ったり、他者の成功を祝ったり、面と向かって褒めたりすることが、"みっともない" と貶される場所に浸かっていれば、誰でも。
「馬鹿ばっかり」「見てあれ、恥ずかしくないのかな」「その程度で調子に乗って目障り」「他所でやってよ」「期待したほどじゃなかった」「ちょっと太ったんじゃない?」「興味ないわ」「なに色気付いちゃって」「あんなののどこが良いんだか」「年取ったなあ」「あんたなんて誰も見てないって」
云々。
勝負から降りて、挑む者を上から採点し、転べば「ほら見たことか」と手を叩いて喜ぶ。そういう種類の注目、そういう種類の娯楽、そういう種類の牽制。
…。
……。
………うるせ~~!
他人の努力を腐すのくらい一人でやらんかい。散れ!!
卑屈な僻み根性に引き摺られて堪るかと思う。やかましい、おれは夢を見にいく。
好きな人に会い、美味いものを食べ、綺麗な絵を見て、優れた本を読み、格好良い音楽を聴き、懸命に物語を書き、皮肉でない冗談を言って、陽気に笑い、踊り、「最高に楽しかった」と歌い残して死ぬ。
そう決めたところで、相変わらず現実に落胆してバチギレては「くそったれが」と床を転がり大暴れをしていて、でも、なんというか最近は「あ、なら結構です。」から「もうええて (泣)」にシフトしてきているような感じがある。
よりコミカルなほうへ、チャーミングなほうへ。愛嬌のある言い換えの術を学んで小賢しくなっただけかもしれない。
けれどそれも、冷やかし抜きの優しさを教えてくれた人たちのおかげ、ということで。
おれは皆のことが大好きだから、いまはもう真剣な言葉を使うのを諦めたりはしない。
たとえ上手く伝えられなくても、一度躊躇って通り過ぎてから戻る羽目になっても、飾らない喜びや寂しさを示すことこそが、最もイカした抵抗であるはずだ。
違うだろうか?