あることがきっかけで使うことを控えるようになった漢字がある。それは「忙」という漢字だ。「ご多忙のところ恐れ入りますが……。」という文言はメールが連絡手段となった2000年代には、就職活動中の若者でも使うほど、挨拶のテンプレートになっている。漢字の成り立ちについて、いやいや!心をなくすような過ごし方してる前提なのか?と、変なところで生真面目な自分は、この言葉に対して疑問を持ったものだ。
疑問を持つのは心当たりがあったからだ。図星だ。図星なのだ。多感な10代20代、私の心はどこにあったか。おそらくなかった。なくしていた。というよりも、育たなかったのだろう。それもそのはず。世界の中心が自分だと思い込んでいる姫のような母(以後、雛さまと呼ぶ)と、雛さまに仕える三人官女のような父、雛さまに溺愛される五人囃子の兄、そんなひな壇に加わることとなったのが、雑用係を担った仕丁の自分である。仕丁とは成年男子が強制的に宮廷で労働する役回りである。雛人形の雛壇では、感情豊かな表情を見せているが、自分はというと、雛さまのご機嫌取りのうわべの表情をこさえていた。
そんな仕丁も成人後に雛壇(実家)から離れ、人生の師や仲間たちに出会い、日々を一歩一歩過ごしている。20代後半に仕丁のような奴隷のようなふるまいでは、社会の中でやっていけないことに気づき、雛さまに絶望し、自分に絶望し、それでもいいじゃないかと少しずつ歩き出し、自分の時間を積み重ねることで、日々、穏やかに過ごせるようになった。今では、実家にいたころのことを思い出すことも少なくなり、自分を犠牲にすることなく、自分を優先する選択ができるようになったほどだ。しかし、感情はどうだろうか。自分には共感力が欠けている自覚がある。若いころは空気が読めずに人間関係が哀しく希薄なものだった。
雛さまに仕えていた頃のことを綴ることで、感情を育てるきっかけが見えそうな気がしている。年を重ねるにつれ記憶が曖昧になってきたので、今のうちに記録しようというのも切実な理由である。ネット上に文章を残すのは7割は自分のため。もし、似た境遇の方や今まさに子育てをしている方に届くようなら幸い。元来、雛人形の役割は「厄除」と言われる。自分の文章が誰かの厄を落とせるならうれしい限り。
若かりし頃、心をなくした仕丁が年を重ねてから自分を育てていく物語。手っ取り早く表現するならば、「毒親サバイバー」による「自分を育てる」物語なのだが、「毒親」という言葉がしっくりこないし、自己啓発的なノリはうっとうしいと感じる質なので、ひねくれが一周まわって、雛人形になぞらえて「厄落とし」するというコンセプトに落ち着いた。筆者は内面が冷ややかで、まだまだ未熟ということを自覚している。「それもまたいいじゃない」をモットーに日々を綴ってみる。はず。