私たちはどう生きるか

おいも
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X(旧ツイッター)で「メルヘンおばさんにならないために」という女性誌の特集があった、というポストを見た。その雑誌を読んだわけではないので勝手な想像だが、メルヘンおばさん=年齢不相応の装いや生き方をする中年女性という意味だろう。このような悪意ある言葉が罷り通ってしまう背景として、中年期の女性のモデル像が「年齢より若く見える」か「年齢相応に落ち着いている」の二択しかないことがある。いずれも年齢を基準とした価値観であり、その価値観から外れるとメルヘンおばさんだの痛いだのと言われてしまう…という風に我々は様々な場面で"思わされて"いる。もういい加減にしてほしい。今は2023年である。本来なら、サイボーグ化した体に電脳チップを埋め込んでネットワークに交感し、テクノロジーの恩恵で性別や年齢などあらゆる束縛から逃れていたはずだったのだ。それなのに現実は生身の肉体の年齢などという原始的な価値観に縛られている。という私自身も、ここ数年は中年期をどう生きればいいかわからずにいる。ハヤオに君たちはどう生きるか、などと突きつけられても「わかりません…」としか答えようがない。あの映画の少年のように現実でもがきながらも幻想の世界に足を踏み入れて軽やかに大冒険をするのは無理だ。まず弓矢が作れない。何ならボタンの縫い付けすらできない。X(旧ツイッター)では「映画グロリアのジーナ・ローランズが理想像」などとポストしたが、あの作品のジーナ・ローランズはマフィアの元情婦という設定だった。私がその設定を踏襲するためには今から旧ピッチでマフィアのツテを探さなければいけないだろう。それは難しいのでもう少し現実的な路線でのモデルを探すとなると、これがまた難しい。同世代で活躍している女性というのは年齢を重ねてなお大衆の支持を得るだけあって、本当に素晴らしい才能を持ったミュージシャンや華やかな容姿の女優であり、彼女らを目標とするには自分という人間はあまりにもダサくて凡庸な気がするのだ。かといってもう少し身近なインフルエンサーやYouTuberなどは、映えを意識した存在なため虚像じみていてしっくりこない。ゆるく楽しく暮らしてそうだなという意味での理想は阿佐ヶ谷姉妹あたりがいるが、彼女らは平凡なようで才気の塊である。それに何より、生活も共有する親友兼ビジネスパートナーという、どれほど努力しても手に入れられない存在を持っている。才能もなければ人の縁にも恵まれなかった私は一体誰を、何を目指せばいいのか。何もわからないままブラックフライデーに向けてカートにものを放り込み続けている。