・ずっと力んでいて、肩と首と(それと繋がって頭)と奥歯と顎が痛い。
・月、火曜日の外部講師によるビジネスマナー研修でバッドに陥ってしまった、そのバッドを結局土曜日の夜まで引き摺った。
・研修は四人グループで行われるディスカッションが中心のもので、わたしのグループはわたし以外転職組の人たちだった。話をしていてずっと劣等感を感じていた。
・それに加えて、「社会人としての」にかなり当てられてしまっていた。母の死を受けて傷つきやすさに敏感になっていて、昨年一年はかなり付き合う人を選んでいた、自分の心地よさに正直に一人でいることを選ぶこともかなりあった、家を出て一人になりたいということもそう。職場での昼食も誘ってもらったらそれに乗るが、自らは誘いにくく、また車で一人を保つ方が愛想笑いせずに済み気楽だ。
・愛想のよさとそれを生かして構築する人間関係が何よりも大切だと講師は言った。発狂しそうになった。当然のように愛想良くいたいがあまりにも今のわたしにはできないことだ
・小中高の部活で嫌というほど身につけ、行く先々で発揮する、就活の時に長所として掲げたはずだった後輩力みたいなものが、全くと言っていいほど発揮できていない
わたしの部署では朝に掃除をするので定時の15分前に集合しなければならないがわたしは30分前に来ている。それを評価されたいと言いたいわけではなくて、それしかできていない、後であれできたなーってお風呂で毎日いろいろ思う。
・働くこと、職場での業務に対しても、家事に対しても、できないことのすべてが申し訳なさとしてわたしの首を絞める感覚がある(再び)
・本当に仕事ができない、全然身につかない。勉強が好きでそれなりに得意だから仕事を覚えるのもあまり苦じゃないだろうと思っていた、が、すごく丁寧に仕事を教えてもらっても、決まった時間にこれをする という業務がほとんどであるため、その実践をできるのが次の日、反復も一日一回になってしまうので業務が永遠に定着しない、毎日処理能力が低すぎる
・自惚れ、自己に対する過大評価かもしれないが、様々なことに対しわたしの能力値は決して低くないと思い込んでいる、運動以外のことはやればそれなりにこなせるタイプであるという自負があった。が、それはわたしの才ではなく、吹奏楽部時代の個人の朝練習みたいな、見えないところで爪を研ぐことが好きという性質によるもので、そういった個人の時間を割いた反復練習のできないものが苦手であることを思い知った。本当に同じことを毎日先輩に聞いてしまっている、申し訳なさすぎる
・それにこの申し訳なさは時期的なものでもあり、3月末から5月末まで例外的に忙しいこの部署の人たちは、わたし以外みんな23時近くまで残業しているらしく、20時前の退勤にもかかわらずヒィヒィ言っていることに先輩方に対する申し訳なさと、余計に早く仕事ができるようにならねばという焦りを感じている(冷静に考えればちょくちょくある研修のせいで業務自体は丸5日しかやっていないのにね)
・それと、仕事のできなさを、死別鬱=甘え!と捉えられることに恐怖を感じている。ぬるさを若さに括られることに当然不快感がある、近しい上司からそう思われたくない。絶対に。
研修初日、三つある会議室を彷徨って遅刻した。隣の席になった同期に「人事に目つけられるよ」と耳を刺された、えーーー?どういう嫌がらせー?わたし貴方になにかしましたー?と思ったけど、確かにわたしの確認不足であることは事実であるし、人事評価に繋がることも事実であると思う。どう考えても死別鬱とは別問題だし、本当に気を引き締めてくれわたし とは思う。当然に擁護者はいない、でも一人でいることも許されない(社会的死である)ことがどうしても心を抉る、いまのわたしには「成長課題!PDCA!」なんて意識高く(?)思えることができない
・そういったものを抱えて掃除や家事の滞った自宅に帰ってきてヒステリックを発動した、本当に最悪だった
◯
・既に話したことであるが、完璧主義で癇癪持ちの母がわたしのヒステリックのトリガーになっていることに、母が死ぬ頃に気づいた
・母が衰弱していくのを前に、母に対する許せなさがあることの罪悪感に鬱になっていた。わたしのそういった内情をすべて棚に上げて(話していなかったので当然)、「うまくいかない」と嘆くわたしに対して、求めていないアドバイスと言わんばかりにわたしの(母から譲り受けた)欠点を突いてくる父に対してずっと嫌悪感を持っていた。
遂にそれがやっぱり母に原因があると思うんだよね、わたしもそれが苦しいんだよ という話を父にした。どうやら父も母に対して感じていたことのようだった。
そもそも母がヒステリックを起こす原因としてあるのは父と母の経済的労働と家事労働の完全な分業で、お互いにお互いのつらさを知らないまま自らの仕事のつらさを、自分ばかりが大変であるように父は母に、母はわたしに話していた。このスタイルを効率的としてよしとしたところから間違っていたよね という話をした。
それから、母は育児ノイローゼになっていたこと、わたしにも薄ら記憶にある、母がヒステリックを起こして家出した(わたしが泣きながら母の実家に走って行って、祖母に諭されて母は帰ってきた)という出来事が、わたしの「母のため」という生きづらさの始まりなんじゃないか という話になった。
(わたしの不在中に頼んでおいたことをやっていなかったことにわたしが怒って)喧嘩腰の会話から始まったものであったが二人でどうしようもないと泣き出して、ようやくこういった母を前にしてできなかった話をした。なんか、やっと理解してもらえた という感じがあった、本当は母に、「もうお母さんのためではなくあなた自身のために生きてね」と言われたかった、そんな遺言書が何処かにないかずっと探しているが見当たらない。けれどそれももういいかと思えた、意味のある土曜日だった。
◯
・職場の上司の家庭に不幸がありそのお焼香のために土曜日も職場の人と会った。仲良くしていただいている先輩に帰りに誘ってもらってファミレスにいった。抹茶パフェをご馳走してもらった。
わたしより7つ8つ歳上の先輩と話していて、わたしもこの歳になれば と思えた。一つ目標として25歳までに落ち着く、27歳までに大人になる を持つことにした。もはや焦る必要などどこにもない
・先輩に、次はカラオケ行こ! と誘われた
歌に自信などなく、音楽の好みを探るのは難しい、ウケを狙える曲を見つけたい、わたしの音域に合うの教えてよ聡実くん