例えばここにである。
私は文章を書くのが好きだ。たぶんそれ以前に何かを言語化するのが好きだ。
前提として知識を増やすという行為にまったくの抵抗がないため、おかげでこのWebアプリケーション開発者という職業に就けているのだが、この職では知識を増やし続けることが求められる。知識を増やし続けるとき、脳内にはストレージとメモリがあると思っており、最初に知識はメモリに入っていく。メモリの情報は定期的に言語化しないとストレージに移ってくれない。そしてメモリにだけ留めておくと揮発する。これが私が文章化する理由であり、登壇やPodcast出演を惜しまない理由だ。
思えば小学生の時の国語の作文は大嫌いだった。原稿用紙1枚を埋めるのさえ億劫である。なんせ書き初めが「ぼくは、」でなければ理不尽に怒られるという、いまだに腑に落ちていない経験があった。教師のご機嫌を伺わないと書けないような作文の授業は苦痛でしかなかった。
自分が定期的に文章のアウトプットを繰り返すようになったのはいつだろうか。典型的中二病を患っていたため「ザ・中二病」な小説を中学生の頃に特に読んでおり、たぶん語彙量はここでかなり増やしている。
いわゆる「ホームページ」を開設したのも中学生の頃で、すでに高校時代にはブログを書いて定期的に載せていた。なので、しずかなインターネットに毎日書くという行為自体は20年ほど前から違和感なく進めていた。
私はプロの物書きではないが、業務として文章を書いていた期間、そして文章でギャラが支払われた経験がある。一つが技術記事の連載、もうひとつが技術系商業本の刊行だ。
開発者の界隈に身を置いて定期的にアウトプットを繰り返していると、そういった誘いが来ることがある。あるいは、入社した先がそういうメディアを持っており連載の当番が回ってくることがある。強制的に書かされるというのは、今思えば貴重な経験だ。そして出版業界のプロに編集、校正を受けるという機会もまた貴重である。
連載においては、技術的な段取りはすべてこちらで用意したが、読者のための前提の説明や、連載における話数調整とそのための話題の切り方などは編集の方と一緒にかなり詰めた。こういった「売り物としての文章展開と日本語の扱い」については、なかなか望んでは得られない体験であるため、ここは連載を持った経験はかなり活きているなと感じる。
しずかなインターネットに私が書く上でのポリシーは、絞っているがいくつかある。テーマは自由でよい、かならず読み返してから投稿する、愚痴で占めたり他人を傷つける発言を含めない。これだけだ。
連載と違って、話題が飛んだり全体の山が歪であることは許容しているが、自分の書く内容に責任を持つという観点は連載当時もここでも変えないようにしている。これはZennや登壇の原稿でも同様で、自分の美意識として、とにかく徹底するように気をつけている。