漫画のブルーピリオドのヒットで美大受験の内容の認知度も上がったかもしれない。私は1巻だけ読んだ。しかし、古傷が疼いて二巻以降が読めなくなってしまった。私の美大受験の記憶の大半は苦さだからである。
ブルーピリオドはファイン系の学科について描かれていたと思うが、私は私大のグラフィック系デザイン学科受験のために予備校に通っていた。(美大予備校は受験する学科によってコースが変わる)。東京でグラフィックデザイン系の私立美術大学を受験する場合、武蔵美と多摩美が志望上位になることが多いと思う。どちらの大学も色彩構成やデッサンを必要とする学科が多かった。
補足すると、色彩構成(平面構成とも言う)は、紙面上で形や空間、色彩のバランスをとってまとまりある画面をつくることである。受験時は試験課題があって、それに沿って表現する。
デッサンは主に鉛筆で描く。ムサビも多摩美も当時は大体手を描く試験課題が多かった。
高校3年の1年間、浪人して1年間。通算2年通った。
同じクラスの同級生の馴れ合いのノリについていけない自分のコミュ力の低さを、「遊びに来てる訳じゃないのになんなんだアイツらは」と、クラスの人間を少し見下すことで正当化していた。その甲斐あってか、ただひたすら絵を描けた。人間としてはどうだったかはわからないが。(とにかくこの頃は、かなり拗らせていた)
そうやって受験時の色彩構成。
30点。
50点が上限じゃない。150点満点中である。
ここまで、ここまで伸びないとは! 驚愕である。私は色彩構成が成長しないと言う才能を持っていたのだ。我ながらすごい。最悪だよ。
完全に自分のフォローで恥ずかしいが、デッサンのほうはかなり成長したおかげで、8割くらいはとっていた。しかし、とった点数のバランスの悪さ(学科も英語が全く取れていなかった)により志望していた学科の補欠ラインにも行かなかった。2校受けていたが2校とも同じ結果である。
10代最後の、大きな大きな挫折であった。金をかけて予備校に通って、毎日頑張っても伸びないことがある。これは本当にきつかった。ただ、滑り止めで受けていた学科にどうにか合格し、美大に入学することは叶った。本当は素直に入学できたことを心から喜ぶべきだったのだが……。
私はこのときから「デザインの才能がない」と決めてしまったのだ。「色彩構成30点の人間が、グラフィックデザインを志せるの? 無理でしょ?」と。
必修であるデザインの授業は苦行だった。同級生の作品がみんなカッコよく見えた。私は才能がないから、企画職とか考えるタイプのデザインの勉強をしよう。就職もその方向で考えよう。そう思った。
しかし、就職活動が始まる頃、リーマンショックの影響で、就職氷河期がやってきた。就職活動は困難を極めた。4年生の夏を過ぎても、秋を過ぎても決まらなかった。12月、崖っぷちの中で私は仕方なくグラフィックデザインの仕事でどうにか就職することになったのだった。才能のない仕事を。
その後、就職した会社がブラック企業だったり、何社か転職したり過労で精神を病んだりなんだかんだありながらも。いつの間にか13年。どうにか今もグラフィックデザインの仕事をしている。
確かに、私には華々しく働けるデザインの才能はなかった。たとえば広告代理店のアートディレクターのような、そう言う才能は持ち合わせていないしそもそも向いてない、とはっきり言える。(才能の有無より、その業界に合う合わないがかなり重要だったりする)
ただ、世に出て目につくところにある商品に関わることもできて、信頼してくれている取引先の人たちがいる。お金の苦労はあるけれど、フリーランスで食べていけるようになった。(かっこよく言ったけど、会社勤めに向いてなかったのでフリーランスしてるだけだが)
ただ、これが「ずっとやりたかった!憧れていた仕事だ!」と心から望んでいたかと言われるとわからない。特に才能もないけど、強いて言うならグラフィックデザインの仕事しかできなかったから続けるしかなかった、という消極的な面は大きい。でもクライアントの要望に課題の解決に応えることに生きがいを見出すことができたから、続けられてきたのだと思う。
今思えば、受験時の点数は全く意味なんてなかったな、と思う。色彩構成が何点でも、デッサンが何点でも、人生においてその点数が私自身の評価とは何の関係もなかった。変なコンプレックスは持たないで、学生生活を謳歌したら違う自分がいたのかなと思うこともある。でも、それもまた今の自分の一部でもあるから、無駄な自意識だったなと思うけど、否定したい気持ちもない。仕方なかったのだ、当時の私としては。
いつか気にならなくなる時が来るよ。
10代最後、30点に打ちひしがれている私に、そう声をかけたい。
しかし何と言うか、こう思うって、つまり歳をとってしまったってことなのかな……