2024年元日に石川県で起きた地震。この数日後、Twitterでは被災の状況を写真に撮って投稿するアカウントが現れた。この方自身も被災者らしい。
その後まもなくこのアカウントが主には不謹慎であるなどとして非難されるようになり、すぐに非難派と擁護派の対立が始まった。
僕もそれを眺めていて湧く感情にはうすうす気づいていたものの、うまく整理できずにいた。ところが相互フォロー関係にあるArataさんとこれについて話す流れになり、そこでようやく考えとしてまとまった。以下がArataさんに返したリプ。
人間が何かをする動機なんて単一じゃなく、もしそこに好ましからざるものがまぎれてたとしても、他方で「いまの辛い気持ちを紛らわしたい」とか、「正しいのかどうかわからないけど、とにかく何かしていないとまともでいられない」とか、そういう心情があるのかもしれないんだから、慮ってあげようよ、と言いたいですね。いやこれは絶対によくない!って思ったんだとしても自省するかもしれないんだし、今は時間をあげてよ、とも思います。 復興が始まって、まっさら綺麗になってしまったら、震災前の「何々のとき、どこそこに、誰々と行ったよねー」なんてことも思い出せなくなってしまうかもしれない。それは人間にとって本当に寂しいことです。そういう思い出をとどめる助けになるのが写真なわけですが、忘れたくない、めちゃくちゃになってしまった、でも昨日までそこにあった、毎日をこの景色を見ながら暮らしてきた、なくなってほしくない、あの頃に戻ってくれ。そう思ってカメラを向けても今のぶっ壊れた姿を写すことしかできない、それが唯一最大のできることであるというつらさが、わからないんでしょうか。
被災された方、亡くなってしまった方、本当にお辛いことだと思います。
みなさんの心身と街の負った傷が、少しでも早く癒えることを祈るばかりです。