TwitterのおすすめTLを眺めていたらちくま新書の新刊の話題が流れてきた。
本田真隆氏の『家庭の誕生』という著書。WEBにて序章の一部が読めるとのことなので試しに読んでみる。日本の前近代においては「イエ」というものが一族の(士族のみならず農業などの)生活基盤と強く結びついていて、それが伝統的な社会を構成し、家長とよばれる男性による管理体系が作られていた。近代になり都市での産業が地方からの労働者を集めるようになると、その伝統的な保守制度社会から飛び出した子供たちが、夫婦とそのこどもからなる核家族による「家庭」を築き、地方における保守的伝統社会との価値対立が起こるようになったのだという。こども家庭庁の設立をめぐる騒動をひくまでもなく、現代社会で家庭といえばむしろ保守的な意味合いを持つ単語として使われがちだが、かつては進歩的な響きをもっていたというわけだ。
都市になお多くの人々が集まるようになった現代の都市型消費社会では、女性も外に出て働き、男性と同様の社会的権利を有する(というか、進歩派のひとからみれば、そういった権利の在り方こそが当然だろう)ようになる。そこではかつての「イエ→家庭」から、「家庭→個人」という単位で、与えられる役割からの更なる離脱が志向されることになった。そこに至って夫婦とそのこどもたち「のみ」から成る家庭は、すでに進歩的な概念ではなくなり、個人を役割(夫が働き妻が育児をする)によって縛る保守的な枠としてみなされるに至った。
このことは(見方を少し変えれば)、こども(育児)というものが個人の自由を制限するもの=負担として扱われるようになってきた、とも考えられる。その「負担」を夫婦でどう分担するか、あるいは行政がそこにどう関わって(支援して)いくかという話だ。しかしこう考えてしまうと、こどもにとって本当に大切なことは何なのか、という話からどんどん乖離していってしまうような気もする。明らかにこども主体ではなく、こどもが(ある文脈においては)モノとして扱われてしまっている。これでは、こども家庭庁に家庭という言葉を入れる入れないという次元に留まるような問題では、そもそもなくなってしまうのではないのか。
そのいっぽうで、「イエ」の拘束力がいまだにそこそこの影響を持っている地方の共同体においては、「家庭」を持つ夫婦はそういった(都市型生活に否応なくついて回る)葛藤に対し、伝統的な価値観と交渉をしながら、そこそこうまく立ち回っている(そういう人も多くみられる)ように思える。親や兄弟や親せき、地域内の友人知人たちと、時には愚痴を言い、そして妥協をしつつ。
そのような共同体では、こどもたちはこどもとして(モノとしてではなく)扱われる。もちろん都市部での共働き家庭のように、ある文脈においては負担とされる場合も当然あるだろう。しかし、こどもたちはそれこそ「家庭」に「縛られていない」ために、どこかの場面ではきちんと人格を認められ(他の誰かの負担などではなくただそこに居ていいのだと認められ)ることとなる。
同居していなくとも隣町に住まう祖父母の家に子供たちが行けば、(都会住まいの家族が年一で帰省したときのように)他人行儀ではない関係が結ばれることも多い。もちろんときには怒られたりもするだろう。ときには祖父母と父母が言い合う、くらいもあるだろう。近隣の厄介な知人とトラブルになることもあるだろう。すべてがうまく行くわけではない。しかし、たとえば沖縄や小笠原などの地域がそうであるように、そういう社会でこどもたちがどういう顔をしているのか、また、いち家庭におけるこどもの数がどれくらい違うのかをみれば、現代におけるこどもと家庭と社会との諸問題について、ただ「個人の権利が」「役割からの自由が」という見地からだけで語っていいものかどうか、再考する余地は、まだ多くあるように思える。