独学で研究されている方が、新たに知りえた見識から導かれた独自の推論を明らかにすると、(おそらくは既存の有識者等から)疑惑の目でみられたり見下されたりすることがあって、辛い思いをすることがままある、と嘆いていた。
ジャンルにもよるのだろうが、(たとえば科学のように)検証がある程度可能な分野であれば、「異端」としてはじかれがちな立場の弱い在野研究者であっても、そういった辛い思いが報われる(決着がつく)ことも将来的にはあるだろうから、自身の直観を信じてこの先も研究を楽しんでほしいなと、切に思う。
研究と呼ぶにはおこがましいが、自分も(独自の立場から)各種文学作品や伝承についての珍奇な考察を開陳しているので、上記の方のようにあらぬ疑問を持たれたり論ずるに値しないと切り捨てられることはままある。そもそも恩師(故人)がそういうタイプの研究者であったので、その方法を(ある程度)受け継いでやっている自分もそうなるのは当然といえば当然なのだろう。
ただ、こと文学作品の解釈に至っては、唱えた説を検証することが実際にはほぼ不可能ということもあって、少数派の研究者によるいち推論などそもそも他者に検討さえもされず、無視されたまま消え去る運命にある。恩師がそうであったし、唯一の理解者であった友人の教授の言説も、現状では分野に取り入れられている様子がまったく見受けられない。今後、たとえ自分ごときがどのように頑張ったとてその状況は変わらないだろうとも思う。いや、まあ、変えようと頑張るつもりは別段ないのだが。
何かの既存の価値(目的)のために頑張るのではなく、「そうせざるを得ない」から(攻殻機動隊風にいえばゴーストがささやくから)やっているのだ。そうやっているから、見下されようが、無視されようが、あまり気にせずやっていけているのだろう。
叩いたり、無視したりする方々にも彼らなりの事情があるのだろうし、またその事情は他者の手に(とりわけ攻撃や無視の対象とされている当事者に)よって改変できるものではないだろう。変えられないものはそのままに置いておこう。変えようとすれば辛くなるし、心が乾く。乾いた心に夢は湧かない、と昔ささきいさおさんも歌っていた。そう、愛と夢と男のロマンである。
そして奇跡とはじっさい、そういうところにこそ起きるように思う。何かを諦めたところに。言い換えるならば、自身の死を受け入れたところに。