『ザ・キンクス』という榎本俊二氏の最新作(漫画)が面白かった。
この面白さをどう伝えていいのか自分でも悩んでしまうのだが、たとえばこんな話をしてみよう。
一本の鉛筆を考えてみる。鉛筆は黒鉛で作られた芯の部分と、それを支えるための木材を周囲にあてることによって作られている筆記具だ。いま記したように、私たちはこの筆記具をまた、「芯」と「その周りの木」という意味に分割して認識している。しかし、A【芯の部分の「ここのあたり」と木の部分の「そこのあたり」】とB【芯の部分の「それ以外」と木の部分の「それ以外」】といったように分けることはしない。上掲のAやBというパーツに意味を持たせられないからだ。しかしそのように「分けられない」というわけではない。人間は、ある恣意的な単位で物事を考えるように傾向づけられているので、そういう意味不明にみえる(=生活の上で役に立たない)分割方法を最初から除外してしまっているだけだ。
ところが現実の社会においては、一見、自身の生活には何の意味も持たないような出来事が、実は見えないところでつながっていたりもする。その関係性の経緯を後から検証することは(記録さえあれば)可能ではあろうが、事前にそれを察することは予知の超能力でもなければ無理である。その際に、眼前に展開される事象は、事後の当事者にとっても全く何の意味をも持たないか、ともすればその意味を逆にとっていたりさえもする。時間という檻に閉じ込められている人間は誰しもがエピメテウスだ。
しかし物語とは、その因果をときに逆転させる。私たちが「そう」と意味を感じられないものに対して、物語が記されたフィルムを巻き戻すことによって別の秩序を作り出し、「それ」が全体を構成するひとつのパーツであったことを示す。その世界線では無意味な分割が合成され、黒鉛の芯棒とそれを挟む木材からではなく、炭素と鉛のぐちゃぐちゃなふたつの塊から鉛筆が構成されるのだ。
ここに至って、物語の鑑賞者は自らの恣意的な(現世的な意味によって区切られた)視野から解き放たれ、別の秩序と重ね合わさった世界へと飛び込んでいく。それは言葉で言い表すようなものではなく、歌うように、踊るように、輪郭線を引かずに色をキャンバスに直接塗り付けるように。
『キンクス』の登場人物の行動も出鱈目で意味不明なものが多い。何事もすんなりとはいかないし、まったく効率的ではない。「やるわけないだろ」といった端からやっている。言葉は、語られたそのままの意味で使われない。その裏には、別の次元で「意味」を支えている秩序がたしかにある。時空の囚人である私たちにはその別次元の秩序はみえない(認識できない)のだが、それをリズムやメロディーや映像感覚として受け取ることはできる。
その感覚こそが物語を作り出すのだ。