無意識が反応(?)した結果、ウサギに関する何かをつぶやかねばならないというコマンドに従い、気が付けばTwitterで『かちかち山』に出てくるウサギの性別について尋ねていた。
自分が小さいころに見た絵本では、ウサギが女の子として描かれ、「~よ」「~だわ」という女性言葉でセリフがあてられていたが、アンケートの途中経過をみるにどうやら「オス」イメージのほうが優勢のようだ。昨今の絵本では『桃太郎』や『さるかに合戦』の結末がアレンジされていると聞いているが、『かちかち山』もまた、時代によって作られ方が違うのかもしれない。
『かちかち山』の類話と思われる西欧の『狼と狐』というタイプの民話では、強者の狼がオスで、弱者の狐がメスという描かれ方のものも数多くみかける。これもまた現実の社会を反映したものであろうことは窺えるのだが、そのまたさらに前の「儀礼」や「神話」というところに遡ってその構造をみれば、強者と弱者の関係をそのままオス/メスに対応させていいものかという疑問が生じてくる。
たとえば『赤ずきん』という民話もまた、『狼と狐』タイプに類するものと考えられているが、狼が「おばあさんに変装」することに構造を読み解くヒントが隠されている(これは『かちかち山』のタヌキが騙して殺したおばあさんに変装するのと同様の意味がある)。おそらく「狼」の原型とは、日本民話における山姥のような森に住まう女怪物だったのだ。森とは異界=冥府の象徴であり、そこを住処とする山姥(例:ロシア民話のヤガーばあさん)などは、神話が信じられ儀礼が行われていた古代には、冥界の死神であり、同時に豊穣をもたらす女神でもあった。人は誰しも「その時期」がくれば彼女によって魂を収穫され、冥界へと連れ去られる。女神は収穫される「人間」に対して圧倒的な強者であり、冥府へと彼らを「呑みこむ」存在なのだ。呑みこまれた魂は記憶を消し去られ、時が来れば女神によってふたたび世界へと産み出される。
民話の「狼」とは、牙をむいてすべての存在を呑みこむその大口の象徴であり、また産み成すもの=女性として本来そこに置かれている。またそこに対比される「狐」とは、呑みこまれ、再生される「魂」のことに他ならない。
そしてこの儀礼構造を作り上げたのは誰あろう、男性なのだ。彼らはこういった虚構を考えだし、本来はそこで終わるはずだったオトコとしての命を、「再生可能なもの」として扱うことで、自らのクローンを作る(産む)ことで永遠の命を持つ「女性性」というものに対抗したのだ。
民話に登場する狼や狐、あるいはタヌキやウサギといったものに、そのまま性別を当てはめようとするのはもちろんナンセンスではあるのだが、その構造にまで遡って考えるとき、男女間の強者⇔弱者という関係は、たんに肉体的な強さ(筋力や体格)を扱う「だけ」のものではなかったことに気づくだろう。そしてまた、時代によって、両者間のバランスは常に変化していくのだ。
そういった性差における過去の争いの向こうに、人類にとって「別の形の幸福」があればいいのだがなあと、常々思っているのだが、そういった跳躍のためにも、物事の表層を眺めるだけではなくその表層を支える土台にまで思いを巡らせることが、ますます分断が進みゆく現代人には必要なのではないだろうか。