日本人メジャーリーガーの専属通訳がギャンブルにハマり、担当している選手の口座から多額の資金を移動(窃盗)させたとしてスキャンダルになっている。
このニュースを受けてか、ネット上では「そもそも賭博なんか禁止にするべき」という強硬な意見も散見される。この裏には大阪のカジノ構想に対する反発もあるのかもしれない。芸能人(今回のケースは芸能人の周囲だったが)のスキャンダルだけでなく、親族など身近にギャンブル依存症の人がいた人たちにとっては、他人事ではないのだろう。かくいう自分の周囲でもそういう経験がいくつかあって、その方々の苦悩は察して余りある。
ところで賭博というのは、もともと「儀礼」と深く結びついている行為であり、たとえば「占い」などを思い浮かべればなんとなくその関係性に納得できるのではないかと思う。自身が「生死のはざま」に赴くことで、この世ならざる力に触れ、(あわよくば)その超力を身に着けようとする行為、であるといえる(もちろん失敗すればそこに待っているのは「死」というわけだ)。これは神前格闘(相撲など)や、そこから派生したスポーツなどとも同じだろう。
儀礼に付随する行為を他に挙げれば、暴力、酩酊、淫蕩、舞踊、音楽などがあるが、本質的にはこれらもやはり「生死のはざま」で行われることに変わりはない。本来これらは、神域などの区切られた場所、限られた期間に行われていたものだった。たとえばお祭りのケンカ神輿では激しい暴力が吹き荒れるが、これを毎日やって怪我人や死者をたびたび出していたのでは、日々の生活が成り立たないし、社会(経済)が回っていかないだろう。本来は、あくまでも「境界領域」の中で、その場限り、あと腐れなしという前提での「瞬間のきらめき」であったはずなのだ。
ギャンブル依存や薬物依存などは、このような、本来は「瞬間の中にのみ成立しうる」出来事が、現世において常態化した状態だともいえる。賭博や酩酊は「現世という固定された時空の中では解決できない問題」に救いをもたらす効果を持っているのだが、その効能が過ぎればたちまち猛毒となる。
ちなみに、「貨幣(カネ=数字・数量)」も同じ性質を持っており、本来は市場でのみ通用し、そこから出ればたちまち消え去るべきものであったはずだった。富の蓄積と国家の成立が貨幣を現世に留まらせ、その悪影響が現代人の心をむしばんでいるともいえよう。
少々話がそれたが、賭博や薬物(アルコールなどの嗜好品)を禁止にするのは難しいことではない。しかし、そういった儀礼的な要素を抜きにして、現世という固定された時空の中に閉じ込められた我々の閉そく感をどうやって解消させるかという問題は残り続けることになるだろう。そして同時にこれは、賭博や薬物だけを禁止すればいいというものでもないはずなのだ。たとえば私たちはいまさら貨幣の流通を禁止することができるのだろうか?