某党の地方議員がいかがわしいパーティに興じていたとする画像が週刊誌に出回り、物議を醸しているようだ。
この党ではつい先日、別の地方の支部において「懇親会」と称した「半裸のダンサー(というか実質コンパニオンだろう)と戯れるパーティ」に政治資金が使われた、として批判を浴びたこともあって、市民団体や他党からの厳しい批判の声が上がっている。
そもそも「懇親会」に政治資金を使うことが許されるかどうかという問題はあるだろうが、まあ一般的な感覚としては「お茶」や「弁当」程度の出し物ならそうそう批判を受けるものでもないだろう。同じ釜の飯を食う、という格言からも、食事を共にすることで議論が活性化するというのはままありうることだ。その会合(に使われた政治資金)を資本に出された「結果」によって判断(民意)を仰ぐ、くらいのアバウトさは、あってもよいのではないかと思う。その点からみても、先般の会合(半裸ダンサーとの戯れ)からなにがしかの成果が得られるかと問われたときに、まともな答が返ってこないことは当然であろう。
ただ、冒頭の例は果たしてどうなのかと思う。報道によれば某地方議員がSMパーティにおいてアイドルのコスプレをし、下着姿で緊縛される画像が見つかったということだ。この集まりに政治資金が投入されたとあれば確かに問題ではあろうが、いくつか拾えた記事からはそこまでは窺えなかった。ただ、そういう議員の「痴態」が流失したということだ。
SNSでは「またか」という怒りや嘆きの声(これはもちろん前掲の半裸ダンスパーティへの批判を念頭においたものだろう)に加えて、「このような変態に政治をまかせておいてよいのか」というコメントが多数あふれた。
不思議なのはそのような怒りや嘆きを露わにする方々のうちの少なくない方々が、普段は「同性愛・同性婚」に対して理解を示し、政府の保守的な態度を批判するひとたちであったことだ。ほんの数十年前まで、我が国においても多くの人たちにとって同性愛は「変態」の範疇に置かれ、ともすればなんらかの精神的な疾患であると見做されることもあった。たとえば自分の親などは、オカマやオネエなどと称されるその手のタレントをテレビなどで見かけると、いまだにあからさまな嫌悪感を示すことがある。
ネット社会になり、また国際的な感覚が若年層を中心に広まるにつれ、そういった偏見は徐々に払拭されつつあり、(少なくとも西側諸国では)将来的にはむしろそういう偏見を持つほうがマイノリティとなってゆくのだろう。その啓蒙に際して、前段の「政府の保守的な態度を批判するひとたち」が為してきた努力はまさしく素晴らしいものであったとは思う。
しかしいま、そのひとたち自らが批判してきたのとまったく同様の偏見を、「SMなどの性的嗜好」に抱いているとしたら、彼らは、実は社会の「保守性」というものに批判をしていたのではない、ということにはならないだろうか。
「SMなんて変態だ」「いい年したおじさんが、ましてや議員ともあろうものが、女性アイドルの恰好するなんておかしい」
そのような言説と、「同性どうしで愛し合うなんてなんかの病気じゃないのか?」といぶかしむ老人たちと、いったい何が違うというのだろうか。