課題と笑い

oll_rinkrank
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日本神話の「天岩戸」伝承では、弟神スサノオの蛮行に怒って岩山に隠れた天照神を再び外へと誘い出すために、神々が集まって一計を案じるというエピソードが語られる。岩戸の前に集まった神々の前でアメノウズメノミコトが半裸となって踊ると、八百万の神々は一斉に大笑いをするのだが、天照神はその響きに何が起こったのかと興味を惹かれ、固く閉ざされた扉をほんの少し開ける、というものだ。

これに近い描写がギリシア神話の「デメテルの放浪」というエピソードの中にもある。冥界神のハデスにより、春の女神である娘のペルセポネをさらわれたデメテルが、嘆き悲しんで荒野を放浪していると、バウボという女性が性的なジョークを言って慰め(あるいは下半身を露出したとも)、女神を笑わせた。

古代ローマが世界の覇権を握っていた時代には、ヨーロッパの各地で春の豊穣を祈る儀礼が広く行われていた。中世にはこの儀礼がキリスト教の「復活祭」に習合されることになるが、この復活祭において、ミサの終わりに司祭が着衣の裾をほんの少し持ち上げるしぐさをして、民衆が笑う、という習わしがあるという。これもまた、性的なジョークと笑いとの関係を示す一例だ。

性的な振る舞いと笑い、それによって豊穣がもたらされるという儀礼は世界中の文化にみられ、民話などの伝承にもその一部が受け継がれている。山姥に追いかけられた母子が舟に乗って川の向こう岸に逃げようとすると、山姥は川の水を飲み干そうとする。そこで母子が(なぜか)お尻を出して自らぺんぺんと叩くと、山姥が大笑いして水を吹き出してしまい、彼らは助かるという展開になる。面白おかしく語られてはいるが、このような民話もまた、前述の儀礼が元になって後世にまで残っていったと考えられる。

閉塞的な状況(例えば「冬」)から(「春」へと)抜け出すために、性的なジョークが語られ、そこで笑いがもたらされる。おそらくこれは少なくとも一万~数千年におよぶ人類の農耕史の中で培われてきた精神的な遺産なのだ。笑いはしばしば「開花」にも擬えられ(ぱっと花が咲いたような、と言われるように)、春の訪れとそのイメージを重ねられている。また性的な振る舞いと芽吹きや開花、結実の関連については、農耕と人間や動物の生殖サイクルとの結びつきについて語らねばならないが、ここでは割愛しておく(比較的イメージはしやすいであろう)。

近年になって農耕から工業へと産業の主体が変化すると、それに伴って地方から都市へと多くの人々の生活基盤が移っていった。農村での儀礼は必要がなくなっても、都市で形骸化した習慣の中にその精神は残り続けていく。たとえば集団で何事かにあたるとき、前述のような儀礼の記憶はそのままに受け継がれていくことになる。誰かが性的なジョークを言うと、周りがそれに合わせて笑い、緊張が解きほぐされる。身分や立場の違いがその一瞬で崩され、目前の課題に立ち向かおうという結束が促される。それは一種の儀式だったのだ。

実は、こういう習わしは極めて最近まで、(その本質が形骸化したままに)何の疑問も持たれずに続けられてきた。都市で営まれる仕事の主体が男性によるものであったからだ。

古代から続く儀礼においても、それは大半が男性によって形成された虚構(社会秩序)を維持するためにあった。たとえ神話や民話に登場する対象が女性(ウズメやバウボ)であっても、その「語り手」は男性原理によって造られたものだ。またこのとき、デメテル(ペルセポネ)やアマテラスは「豊穣の象徴」として表されており、つまりこの神話構造の中において女性とは物語を構成する一要素として扱われている。言い換えるならば、最初から「女性の参加が排除された世界」の中で語られているのだ。

しかして現代では、女性も男性と同じく都市の労働に参加していくようになってきた。それは工場の現場スタッフのように、農耕労働がその形を変えただけのものばかりではない。集団の努力によって課題を乗り越え、社会の新たな需要を開拓していく作業も含まれる。そしてそのような現場では、従来、ほとんど男性たちのみが集まって仕事をしていたのだ。

いま50~60代くらいの男性管理職等においては、そういった時代の記憶がほとんど、という方が大半を占めるであろう。彼らは、すでに彼らの存在する場が男性原理によって動くような舞台ではないことを、悲しいかな、理解できていない。現場が変わりつつあった2000年前後には、彼らはすでに40歳前後になっており、身体に沁みついてしまった行動の記憶をアップデートできるための柔軟さを失いつつあった。

ここでセクハラ行為をしてしまうオジサンたちをかばうつもりはもちろんない。しかし、その行為そのものを批判することと、急激な変化の時代に生きなければならなかった「彼ら自身の哀しさ」にも目を向けることは、また別の階層にあるように思う。