一昔前のパチンコ業界では知らない人がいない…とまでいわれていたか定かではないが、まあとにかく有名な、田山幸憲さんというパチプロ(パチンコライター)がいた。亡くなってからもう20年以上も経つが、いまだに業界人の間では名前が上がると「ああ田山さんね」で通じてしまうほど。
まだ業界誌に記事を書く前の田山さんは、パチンコオンリーで生計を立てているパチプロでありながら、パチプロは職業ではない、パチプロになんかなるもんじゃない、申し訳なさを感じながら生きていかなければいけないんだ、というのが口癖だったという。当時よく言われた「美学」などという安っぽい言葉では言い表せない複雑な感情がそこにはあったのだと思う。
いつぞやのエントリで書いたかと思うが、自分は20代のころ、地方の総合アミューズメント企業に籍を置いていた。主に管理側としていろんな職場を体験させてもらったが、その短い経験の中では書店における勤務が一番長かったと記憶している。さて、書店にとって「立ち読み客」というのは微妙な位置づけにある。店の営業方針やその前提となるロケーションによってその位置づけは異なり、店内が狭い駅前立地などでは立ち読みお断りのところが多いだろうし、逆に郊外の大型複合施設などでは椅子を置いて「ご自由に」というところもある。自身が勤務していた店舗では(基本的に)雑誌や書籍の立ち読みは自由で、コミックや写真集にはビニールカバーをかけていた。これは、どういう客層がメインで何を買うかというのを分析した結果としてそうなったに過ぎない。
しかしSNSなでは「立ち読みは悪」という言説が比較的多くみられるように思う。情報をタダで持ち出すのだから窃盗と同じではないかという理屈だ。確かに、出版社や作家としては立ち読み行為により販売機会を失うことは痛手であろう。書店は客寄せのためにその機会を切り売りして(いわば勝手に試食として供出して)、作家や出版社に宣伝費も払わず自身の利益だけを求めている部分があるのかもしれない。
ただ、そう一律に割り切れるものでもない、ということは、実際には出版社のほうがよく知っていて、専門書などの固いジャンルを除けば、利益の重心は雑誌や書籍本体の販売価額ではなく、そこに付随する様々な経済的要素の絡み合いにあるのだ。例えば漫画雑誌は、単行本コミックを売るためのカタログとしての意味合いが強い(もちろんこれは経済的な視点からみた話であって、雑誌の持つ意味合いとはそれだけではない)。実際に「売る」ことよりも、どれだけ刷って書店や売店に何冊置くことができたかのほうが重要なのだ(電子書籍が登場する前の話なので現状とは若干ずれると思うが)。
そういう出版社や販売店、あるいは両者をつなぐ取次らの複雑な関係の中に立ち読みという行為は存在している。犯罪といえば犯罪になるし(まあ度がすぎなければせいぜい迷惑行為であってよほどのことがなければ窃盗とはみなされないとは思う)、試食や試乗などと同じ体験型販促の一例という要素も(条件によっては)ないわけではない。ただ、それを外野が固定的に「悪」と呼ぶことは、その現場や周辺で働く人々にとってあまり意味のあることではない。
いっぽうで、これを客の「権利」と言ってしまうのもまた行き過ぎなのではないかと思う。それは現場にいない外野の人たちが「悪」と固定化するのと同じだろう。そうではなく、複雑な関係性の中で動態としてあるような行為なのではないかと、個人的には思っている。そういった(固定化されないという意味での境界という)領域に本来あるのは、おそらく、前述の田山さんが感じていたような「申し訳なさ」なのだろう。それはまた、固定化された社会の中でまっとうに生きている多くの人々(作家、販売者、出版社、流通業者などなど)に対する「敬意」の裏返しなのだ。
田山さんの口癖は「忸怩たる思い」だった。