ちょっと本気を出してわけのわからないことを書くと、どうやら本当に伝わらないらしい。というか、どうやったら伝わるのか。そもそも「それだけ」で伝えようとすること自体が無理なのかもしれない。
ひとつひとつ細かくシチュエーションを分け、そこに物語を設定して、それを数多重ねることでしか伝わらない(しかもぼんやりとしか)ことがあるのだろうなあと思う。いろいろな絵画を、下手なものも著名な画家のものも、印象派も自然派も、とにかく数多くみることで、なんとな~くわかってくるものがある。邦楽も洋楽も、クラシックもロックも、ワールドミュージックも民謡も、演歌も唱歌も、とにかく雑多に聞きまくることで、なんとなくわかってくるものもある(のだろう)。
とよ田みのる氏の(漫画の)漫画『これ描いて死ね』の最新刊には、主人公の子が絵の上達のために美術部に体験入部する話がある。担当の教師から示された練習は、「球と正四面体と正六面体」を毎日一時間かけて10日デッサンするというものだった。同じような練習法は、以前もどこかで読んだことがある。リンゴ箱の中からリンゴを取り出してすぐ戻し、「今あなたが持ったリンゴはどれでしょう」」と尋ねると、同じモノを当てることはできないが、持ったリンゴを数時間かけてデッサンさせたあとで同じ設問をすると、ちゃんと同じものを取り出すことができるというものだ。一瞬見るだけの体験では、その対象について把握をすることは難しいが、時間をかけ、角度を変えて何度も何度も向き合うことによって、つまり似たようでちょっと違う体験を積み重ねることによって、初めて見えてくるものがあるのだ。それは細部であったり、構造であったり、あるいは高次元からの視点(俯瞰)であったりする。
急いで言葉で伝えようとするのがそもそも間違いなのかもしれないが、SNSなどではなかなか上記のような体験への誘導は難しい。本来は、インタラクティブな状況において、身振り手振りを交え、ときには図を用いたりしながら、急がずやっていくしかないのだろうと思う。