黙らなくてもいいけど

oll_rinkrank
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プロスポーツの中継などでは、試合と時を同じくして、コーチや選手に対する批判が必ずといっていいほどSNSで流れている。贔屓のチームや選手が思うように動いてくれず、結果も望ましいものにならないのがよほど歯がゆいのだろう。こうすればいいのに、という素人解説が、たとえ素人の提言であったとしても結果的に当たっていることもままあるのがまた悩ましい。

学生のころから様々な遊び場に入り浸っていたおかげか()就職もままならず、しばらくはフリーターをやっていたのだが、ふとした契機から某アミューズメント会社に入ることになった。書店、レンタルビデオ、ゲーム、飲食、カラオケ、パチンコホール、ラブホテル等々、地方レジャーのごった煮みたいなその企業では、一般客があまり知らないような裏側の事情も体験することができた。なかでもパチンコ店は特殊な業態だといえる。店側も客側も互いに利益(カネ)を望んでいるからだ。サービスを受けたから負けても満足した、という客にはなかなかお目にかからない。

一人の客に注目してみれば、そのときの浮き沈みこそあれ、トータルではほぼ客側の負けに終わることは疑いないが、ホール側だってトータルで「勝ち」にはならないところが経営の難しいところだ。20~30年前の一大パチンコ・パチスローム期の頃でさえ、競争に敗れて潰れていく店は多々あった。

長年業界に入り浸っていると、そんな中に、不思議な人がいることに気づく。いわゆる「パチプロ」と呼ばれる人々だ。いつも朝から晩までホールにいて、仕事をしている風でもない。かといって週刊誌やニュースに出てくるようなギャンブル中毒者にもみえない。漫画やドラマの主人公のように超人的なパフォーマンスをみせるわけでもない。彼らはただ淡々とゲームに興じ、浮いたり沈んだりを繰り返しながら、日々わずかづつの利益を積み上げていくのだ。彼らが勝ち続けているその理由は、「勘」とか「技」にあるのではない(最低限の技能が必要とされる場合もある)。あくまで統計に従いながら、確度の高い行為を辛抱強く重ねていくだけなのである。

一般客(パチプロではない人という意味)が「あっちの台がそろそろ大当たりするんじゃないか?」と言って、実際当たったところで、それは単にそのときの勘にすぎず、統計的にみれば、勘に従ってプレイする人は、トータルでは99.99…%負け越している。これは裏側(経営者側)から見た結果であって、動かしようがない事実だ。なればこそ、パチンコ店というアミューズメントの業態が成り立っているわけだ。これは単純な話であって、経営側が持つ圧倒的なデータ量から導かれる回答が、一般の人が持ち得るわずかなデータから導かれる選択肢(勘)に勝っているだけのことである。ホール側もまた(前述したパチプロ氏のように)確度の高い行為を大量に積み重ねているのだ。

(パチプロがその相反する対立の中で隙をついて利益を上げ続けられるか、という疑問に関しては、語りだすと長くなってしまうので、いまここでは触れないことにする。)

さて、プロスポーツの競技等でも、これと同じようなことがあるのだと思う。テレビ視聴している我々素人船頭は到底知りえないほどの膨大なデータを、コーチや選手らは蓄積しており、そこから導かれた確度の高い選択肢を彼らは積み重ねているはずなのだ。「なんでそこでストレートを投げるんだよ、変化球でかわすべきだったろ!」と、画面に怒鳴りつけたり、あるいはSNSに投稿したりしたところで、同じことを「プレイ前に選択させ続けた場合」には、その「船頭さん」は、実際のコーチや選手たちの選択のほうが正解率が高かったことを知ることになるだろう。

ここまで読んだ方は、「つまり素人は口を出すな、と言いたいのか?」と思われるかもしれない。

そうではない。こうしたらいいんじゃないか、というのは、その思い付きが99.99…%無駄なこと(すでに十分検討されて否定されたもの)であったとしても、有益なものである可能性がゼロではないからである。

ただ、それが実際の現場で「いま」動いている(プロの)方々の判断を超えないこと、が重要なのだと思う。結果をみて(ヒットを打たれた、ゴールを決められた等)から、「ああすればよかったのに」「自分はこう言ったのに」という後出しジャンケンは、「こうしなくてよかった」「彼の言うとおりだった」という反省にはほとんどの場合、つながらない。おそらくそこには責任という観点がないからだ。

「こうしたほうがいいんじゃないか」は、「それが現場の迷惑にならない限り」は、いくら言ってもいい。そもそも進歩など、その無数の積み重ねの上にしか存在しない。しかし、もしそれを「こうすべき」というならば、そこにかかる責任を果たさなければならない。おそらく99.99…%無駄に終わることがわかっているその選択を引き受ける責任が持てないなら、べきという言葉は心に収め、テレビの前の観客に徹しておいたほうがいい。