番外編

oll_rinkrank
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先日完結巻が発売され、放映中のアニメも盛り上がっている漫画『ダンジョン飯』の作者、九井先生が、最近出されたファンブック(?)がなかなか好評を得ているようだ。終わったからこその裏設定を明かしてくれるだけでなく、さすが作者ならではという「世界観を壊さない良質のお遊び」を、支えてくれたファンに向けて提供してくれるのは本当にありがたい。

そういえばダンジョン飯と同じく、昨年、人気のままに完結した阿部共実氏の『潮が舞い子が舞い』も、SNSで作者本人から次々と公式二次絵、二次漫画が供給され、ファンもそのお遊びを楽しんでいた。

これもSNS時代ならではのやりとり(宣伝)といえばそれまでなのだろうが、ただ前述の作家さんたちのケースをみると、作品の宣伝というものを超え、作者本人がそういった創作を単なるサービスとしてではなく(つまりどうしようもなく)楽しんでいるように思える。

こういうスタイルの作品をどこかで見たような…と思い出してみたのだが、自分の原体験はたぶん『うる星やつら』だろう。もともと一話完結のギャグストーリータイプだったので番外編もやりやすい部分はあったのだろうとは思うが、いわゆる学園祭イベントにおける劇中劇のような言い訳ではなく、ほとんど何の整合性もないままに、本来のキャラクターが役割を離れて、時代も設定も異なる別の物語の登場人物を演じてしまう。しかしキャラの癖は元の物語そのまま(例えば諸星あたるは女好き)なので、番外編(完全に別の物語)でありながら、読者は原作の続き(いちエピソード)としてそれを楽しめるようになっているのだ。

このような遊びというのはいったいどこまで遡れるのだろう。ドリフターズの演じた人形劇『飛べ!孫悟空』もその範疇に入るのだろうか。加トちゃんがそのままに出てくるのはさすがに反則なんじゃないのかとか、まあ言いたいことはいろいろあるが。いやまて、そもそもドリフのコントがそういう性質なんじゃないか…

ひょっとしたらシェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』がその元祖だろうか。いやまて、世界各地の神話や民話に登場するいくつものエピソードを持つ英雄というのもあるか。日本なら吉四六さんのとんち話とか。ギリシア神話のヘラクレスなら確かにこういうことをやりそうだなあとか。民話で定番の名前を持つドジな主人公もその類なのかもしれない。イワンやハンスはいつもどこかヌケている。

つまり物語におけるキャラクター(あるいはキャラクター性)というのはそういうものなのだろう。キャラがきちんと立った存在というのは、どのように役を振られようが(イケていようがいまいが)、ちゃんと物語の中で輝いてくれるし、逆にそこがブレブレだと変化に応えられないように思う。きっちり固定されていたほうが自由に動かしやすいというのはなんとも不思議なものだ。