昨年末に亡くなった作家の酒見賢一さんの大作『陋巷に在り』に、儒教の「礼」について主人公の顔回が語るシーンがある。いわく「礼とはモノとモノの間にあるもの」だと。
儒教というと「目上の人を敬う」だとかとかく父権的・階級的なイメージを持たれがちだが、その根本にある「礼」とは、世界にどうしようもなく生じる現象と現象の差異を「仲立ち」するものだ。目上の人(大人)に対しての礼があるのと同時に目下の人(小人)に対する礼もあって、本来は「どちらが上であるかを確認するためのもの」ではない。例えば男と女、老人と若者といった「物理的には越えられない壁」を乗り越え、ココロを共有できる仮想領域に「踏み込む」ための所作にすぎない。その意味では、目上を敬うのと同時に、目下も敬わなくてはいけないのだろう。
他者のサービスなどに対し、私たちは「ありがとう」などと感謝の意を口にすることがある。このとき、私たちはサービスの「対価」として、あたかも金銭を手渡すかのようにその言葉を発しているのだろうか。ならば、実際に対価として支払った金銭の意味はなんなのだろうか。
このようなケースにおいて私たちが感謝の意をあらわすとき、その金銭「そのもの=貨幣」には相手が提供したサービスと同等の重みはない。おいしそうなリンゴを売ってくれた相手が、対価として得たその貨幣を食べられるわけではない。付随して発されるありがとうの言葉は、物質としての貨幣に本来含まれていたはずの「敬意」が形をとったものだ。これもまた、リンゴ(食べられるもの)と貨幣(食べられないもの)の間にある「越えられない壁」を、「礼」によって仮想の共有領域へと引き込む、一種の呪術なのだと考えられる。
しかし昨今では、サービスを受けてもなんの挨拶もしないことが当然であると考える人が少なくないようだ。バスから降りるときにありがとうございましたという人は、昔はそれなりに居たように記憶している。あるいは、食堂などで支払いをしたあと、ご馳走様でしたと言うことも同じだろう。サービスの対価としてすでに「お金」を払っているのだから、という理屈なのだろうが、その支払った貨幣に敬意が含まれているかどうか、それが「見えない」ものだからこそおそらく「礼」が求められたのだ。このことは、商店での支払いの際にお金をどう渡すかという動作を考えれば、よりよくわかると思う。あなたがサービスを提供する立場にあったと想像しよう。お客さんからお金を投げつけるように出されたとしたら、相手に敬意があったと感じるだろうか。あるいは金銭の移動を伴わないサービスの授受だとすればどうなるか。どうやって相手に敬意を表すのだろうか。動作も言葉もそういった感情を伝える所作であることには変わりない。
さて、私たちが神社などの神域に入ったり、あるいは公の場で他者に出会ったときにアタマを下げて拝礼したり、あるいは帽子を脱いで挨拶することは、おそらくは(感覚的には)自らのクビを差し出しているように思う。そこには自己の死がある。そのとき、霊魂が己の身体を超え、自己と他者とが共有する場に赴く。
頑なに「礼」を拒むような方々はおそらく、そういった「自己の疑似的な死」を受け入れることができない。自分が可愛い。極限状況になれば、他者を押しのけてでも生き残りたい。もちろんそれは生物個体として当然の感情だろう。だがその感情を押し通すことは、相手にも同時にそれを許すことを意味する。生物とは、この世界は、否応なく押し付けられたバトルロイヤルなのだ。その過酷なリングにおいて、「一面的でしかない弱者性」といういっときの鎧を剥がれた生身のあなたは、果たしてどうやって生き延びていけるというのだろう。