妻と「パクリとそうでないものの境界」について話していて、なんとなく昔の格闘ゲームを思い出していた。
90年代の初頭にストリートファイターⅡ(通称スト2)が登場して以降、アーケードゲーム界には空前の格ゲーブームが訪れた。後発の餓狼伝説や竜虎の拳、KOFシリーズ、侍魂などといったタイトルは、スト2が拓いた格ゲーのシステム(体力ゲージやコマンド技など)をほぼそのまま流用しながら、オリジナリティのある設定でファンを楽しませた。
しかしその中には、オリジナリティがナナメ上の方向に発揮されたのではないかというタイトルもあって、例えば「富士山バスター」とか「バトルクロード」などは、「出オチだけを狙っていたのか」と思うほどパロディ要素が強すぎに思えただけでなく、肝心のゲーム性のほうでも目新しいものが特になかったので、(大方の予想どおり)人気作品となることもなく市場から次第に姿を消していった。上記タイトルについて興味のある方は各自検索していただきたい。
レバーとボタンでキャラを操り、コマンドを入力して必殺技を出すという同じシステムを流用しながらも、人気作品とそうなれなかったものの間にある違いはいったいなんだったのだろうと考えてみたが、必ずしもゲーム世界の設定(世界観)の作りこみだけではないように思う。やはりそこには単純に対戦ゲームとして面白いか否かがあって、その本質を反映できていたかどうかなのではないか。
対戦ゲーム(の本質)とは、ビデオゲームに限らず、将棋や囲碁などの卓上ゲームや、テニスやサッカーなどのスポーツでも基本的には同じで、じつは「空間の争奪」というところに重心がある。サッカーや囲碁でいえば単純な陣取りだし、将棋やテニスや格闘でいえば「間合い」をコントロールできたほうが有利になる。つまり相手には自由に動かせないようにしながら、自分は自由に動けるように働きかけることに極意があるといえる。もちろんそれも相手があってのことだから、向こうも同じように対応してくる。そこに「駆け引き」が成立する余地が生まれる。プレイヤーは対戦相手に何かを支払う(コストをかける)ことによってその代償として空間を手に入れるのだ。この考え方からすれば、格闘ゲームにおける「体力ゲージ」とは、そのコストを視覚化したものだと言えよう。格闘だけではない、なべて対戦ゲームとは「コストをかけることによって空間を手に入れる競技」なのである。
ただシステムを真似ただけで、そういった駆け引きをどうゲームに反映させるかという追求をしてこなかったものは、残念ながら二番煎じやパロディとしか認識されずに終わってしまったように思う。いや、そうではない。コストをかけずに何かを得ようとしても(駆け引きせずに利益にあずかろうとしても)、世界はそれを許さないように動いていることを示したのではないか。端から主役となってゲームをする気がなかったのだから、道化としてその使命を終えるよりほかになかったのかもしれない。