ここ1~2年ばかり(特にそうと意識していたわけではないものの)所有と分配(贈与)の話についていろいろと読んできたのですが、これは現代(の先進国)における少子化の問題とも遠くでつながっているんだなと、ぼんやりながらも理解できてきました。たとえば
共同体の単位がごく小さな血縁グループであった狩猟採集の時代、いとこ婚などの近親婚はむしろ当然であって、子女が共同体間における交換財となるのは、彼らに他の選択肢がほぼ無かったゆえの帰結だったわけですね。そしてそれを十数万年の長きにわたって続けてきたということです
共同体の中で産まれたこどもは、近い血縁関係の中で縁者たちによって共同体のこどもとして育てられ、また生物種としての人類もそのように時間をかけて(心身ともに)適応してきたんだろうなと。そのバランスを「ごく短期間で、また一から組みなおそうとしている」のが、現代の先進国なんでしょうね
また、「人間」の女性が妊娠や出産や育児(授乳)で、(男性と比較して)大変な負担を強いられることも、より多くの男性(βオス)の労働力を共同体に引き込むことと関連していて、種としての生存戦略であり適応の結果「そうなっていった」のだと考えることができます
αオスが君臨するハーレム型社会では女性も労働しないと群れの規模を維持できないので、現人類のような妊娠出産育児のスタイルではなかったと思われます。そういうタイプの群れと前掲のような弱者オス参加型の群れの間で生存競争が行われた結果として、後者が生き残ってきたということなのでしょう
このことを、本来は弱者であるβオスが共同体の労働に参加する見返りとして、女性という「財」の分配が行われた…と考えることはもちろん可能なのですが、これは現代人目線の視点であって、結果としての「現象」にすぎないことは理解しておいたほうがよいと思います
仮にその分配を悪や呪いであると断じたとして、そもそもその流れがなければ「現在という現象もあり得なかった」わけです。ゆえに現代的視点からそのこと自体の善悪を問うことは意味がありません。親ガチャ問題のように、出自が違えばそもそも「私」なる存在の意味が無くなるのと同じです
少々話がそれましたが、私たちは「そういう流れの果て」にある存在なのだということをまず受け止め、善悪という観点から少しばかり身を離しながら、少子化という問題に向き合っていかなければならないのではないかと思います
そのために私たちは、人類学や東西の哲学・主要な宗教、あるいはそれが現実に反映されたものの鏡であるところの文学や芸術というものを、(私たちの社会がいま最重要視している)自然科学と同じくらいに学んでいかなければならないのではないかと、私はそう考えています