中沢新一氏の著書だったような気がするのだが、釣りをするときに釣り竿の先端や、さらには糸や、釣り針にかかった魚に至るまで、「自分」というものが延長している感覚の話があって、興味深く読んだ記憶がある。
自分という感覚はなんなのだろう。例えば、生まれたばかりの乳幼児は、(いわゆる私たちが普段思うような)自分自身と外界の区別があまりよくついていないらしい。それが成長するにしたがって次第に、我々がそうだと認識している「身体」こそが自分だと学習していくわけだが、前掲のような感覚というのも、経験上確かに存在しているように思う。
高校生のころ、バスケットボールの授業で体育の教師がシュートのコツを教えてくれたのだが、それが「自分自身がゴールに吸い込まれるように」というものだった。ボールを投げるのではなく、飛んで行くボールに自分という感覚が延長されてそのままゴールリングに吸い込まれていく感覚で体を動かすのだという。ドイツの哲学者ヘリゲルが名著『弓と禅』で記したように、弓道においてもその極意は同じような感覚なのだろうと思う。達人は、飛んでいく矢とはるか彼方の的と自分が一体化する瞬間を「待つ」。そのように体を動かすのだ。そのとき彼の身体(自分)は、私たちが思う肉体の枠を飛び越え、延長拡大している。テニスプレイヤーのラケットや剣道の竹刀の切っ先なども、上級者のレベルになれば、おそらく同じような延長感覚があるだろう。
武道やスポーツなどを例に挙げずとも、似たようなことはもっと日常に近いところでもみられる。複数の車線がある道で自動車を運転していると、ときたますごい勢いでわずかな隙間を縫うように追い抜いていく車をみかける。おそらくそのとき、暴走するドライバーの感覚は、自身と車体との区別が無くなっているのではないかと思う。人間としての生身の感覚が(多く)残っていれば、高速で走る自動車の隙間を抜けていこうなどとは思わないだろう。それは危険だ、という意識が自然とブレーキをかけさせるのではないか(ゆえにその暴走は往々にして大事故につながることが多い)。
しかしながら、(普段のように)落ち着いて現実世界をみるならば、バスケットボールはただのボールだし、ゴールリングは数メートル先の手の届かないところにある。それはもう圧倒的に「他者」であり、モノでしかない。
モノと自分の境界はどこにあるのか。上掲の例をひいて検討すれば「文脈ごとに自分の大きさは異なる」としか言いようがない。世界は、異なる大きさの自分が無限に存在する、可能性の重ね合わせなのかもしれない。あるいは次のようにも考えられる。「自他」とは単に濃淡の問題でしかないのだと。
自分があり他者がある。その間にどちらでもないゾーンがあり、そのときの状況によって現実世界においての自他の線引きが変わる。それは電子のふるまいを観測するのにも似ている。電子の位置や運動量が観測される前、つまり状況が設定される前には、自分も他人もない重ね合わせの状態なのだ。
私たちは「自分の所有物」とか「自身の権利」などという言葉を、何の疑問もなく普段から使用している。しかし、「所有物」とか「権利」という前に、自分というもののあやふやさについて考えたことはあるだろうか。(疑いもせず)自分と思っているものの中に「他者が入りこんでいる」可能性について、意識したことは果たしてあるのだろうか。
そしてその他者とはボールやリングのような「モノ」だけではないのだ。