かなり前のこと、知人が「高齢の親や親せきにもなんとかスマホを使いこなせるようになってもらいたい」というようなことを話していたことがあったが、これと同じようなことを昨今SNS上で目にした。
それは、近年セルフ形式の支払いが多くなりつつあるスーパーなどで、パネルを前にした高齢者がもたついていることに対して「自分の母親は80代だがきちんと使いこなしている」という、ある種の不快感を示したものだった。要は、高齢であることに甘えず、日々進歩する社会に合わせろという主張だ。
しかしこのことは、別に「高齢者」に限ったことではないだろう。若くても要領が少々悪かったりするひとや、あるいは、多少なり身体に障害を抱えて過ごしている方に対してもしばしば同じような主張が為されることがある。いわく「努力不足だ、甘えるな、俺だって最初からうまくやれたわけじゃない」と。
自動車を運転していると、車道の左端を走る自転車を追い抜かなければならない場合がある。走行ポジションが多少中央寄りになっていたり、あるいはすこしフラついているお年寄りなどをみかけると自分もついつい、危ないなあ、せめてもっと端っこを走ってくれないかなあなどと思ってしまうことが多い。しかしその裏には「自動車のほうが優先されるべき」というまったく根拠のない思い込み=エゴが存在していることに気づき、はっと自身を恥じる。
セルフレジのパネルの前でオロオロとするお年寄りたちは、自転車を奪われ、無理やりに(それまでの人生では必要のなかった)自動車を強制的に運転させられているのではないか。うまく自動車を扱えないのは彼らの努力不足だから、(自転車などという前世紀の危険な遺物に頼っていないで)きちんと乗りこなさせなければならない、などと言うのだろうか。
それとも、そもそも年寄りにはセルフレジは使えないのだから、買い物なんかせずに業者に代行させるべきである、などと考えるのだろうか。
私たちはつい「利便性」「コスパ」などという言い訳を用いて自らの私欲を正当化しがちであるように思う。たとえば数百メートル離れた知人の家や商店などに赴くために、自転車ではなく、自動車を使う理由はそれほど多く挙げられない。様々なニーズがあり、それに応じた多くの手段があるはずだ。どれかが優れているから統一させようというのがそもそも欺瞞なのではないか。