コメディアンは権力者に対して批判的であるべき(それが正しい姿勢だ)、というような言説を見かけた。チャップリンの例をひくまでもなく、国際的にみればそういった反権威、反権力を扱うコメディが主流のひとつであるのも確かだろう。ただそれは、「お笑い」というものの一面しか見ていないのではないか、とも思う。
中世のヨーロッパなどに実際に存在していた道化が、その(傍若無人な)振る舞いを権力者に許されていたのは、その権力者が冥界から得た「この世ならざる力との交換」である、と個人的には考えている。この意味において道化とは、じつは権力者の裏の容貌でもあり、つまり彼がマヌケな振る舞いによって笑われることは、権力者が笑われているのと意味を同じくしている。そして笑いの真の意味とは、前述した「この世ならざる力」が、必要以上に現世にあふれ出ないようにすることだった。
文化的な意味における「笑い」とは、異世界の力と深く関わっている。漫才やコントなどの芸の本質とは、常識とのズレを描いた「恐怖」なのであり、それは現世秩序が崩れるさまを描いたドラマである。そのままで終わってしまえば、当然それはホラーに他ならないのだが、これを笑いというクッションで受け止めることによって、異世界の力をその舞台だけに留めておく。観客は安全な場所から(いわば安全な強化ガラス越しに)異世界を体験することになる。この体験によって得られた異世界由来の力とは、すなわち活力(生命力)のことだ。観客はひととき、現世の「憂き事」から離れて、一瞬の恐怖を笑いによって受け止められ、また元の世界に還っていく。彼らは帰還したあとももちろん日常の憂き事に戻っていかなければならないのだが、しかしほんの少しだけ生きる力を得ているのだ。
このことは「お笑い」だけに限らない。遊園地の絶叫マシーンやお化け屋敷でもその効能は同じだ。お客はそこで恐怖(異世界)体験をするわけだが、数々の安全装置や、お化けなんていないという、「科学への信仰」といったクッションがあってこそ、そのようなレジャーが成立しうるのだ。
文化人の方々から「昨今の日本の芸人の質は低下している」と嘆く声が聞かれるのは今に始まったことではないと思うのだが、表面的な事象の「向こう側にあるものを探っていく」のもまた文化人の使命であろうと思う。王様をからかう道化の姿だけを見て、あれこそがお笑いの正しい在り方だ、という理解に留まってしまうのは、なんというか、もったいない。笑われた王様を見て一瞬スカっとする民衆と、(文化の理解)レベルはそう変わらない。