現Xのほうでもちょこっと書いたのだけど、原作者が作品に込めた意図を正しく読み取れているかどうかという問題についてちょっと。
歴史上の事実、ということにも触れたけども、たとえば邪馬台国がどこにあったかという問題については現時点では明確な証拠がないために、専門家がずっと議論しているにも関わらず結論が出ていないわけで。
我々が生きている時間軸(世界線)の上では、すでに起こった事例というのはもちろんただひとつしかないのだけど、それが判明するまでの「多数の異なる推測」というのは可能性の重ね合わせにも似ており、そのいっぽうで、誰がみても明確と思える証拠が現れることは物理学の「観測」のようなもので、まるで時間の流れが逆転しているような、そんな思いに包まれる。
で、まあ、可能性である以上、選択肢そのものに優劣はなく、またどれだけ確度が高いか否かを優劣と言ってしまうのにも違和感があって、スリット実験で端っこのほうに電子の通過跡ができるのを「劣っている」とはいわないだろうとか思ってしまう。稀なだけじゃないのかなと。
でも我々自身は、ミクロな可能性の世界に生きているわけではなくマクロ世界の住人なので、基本的には選択肢をひとつに絞って、(優劣ではなく)なんらかの基準に従って優先順位をつけて行為するしかない。往来の激しい交差点で、赤信号でもなんとか無事に通過できるかもしれないからと飛び出していくのは「通常そこから得られるリターン=わずかな時間の節約」を考えればあまりにもリスクが高いが、「赤信号の間に渡り切ったら1万円あげる」などとけしかけられたら、信号を無視してダッシュするひとも少なくないだろう。
(いやまあ、東南アジアの諸都市では「渡れるときに渡る」みたいな雰囲気も感じられるので、この喩えも日本人以外にはピンとこないのかもしれないが)
何かが未確定の状況において、個人が彼らなりの基準にしたがって、その条件内で推論を広げている場合に、基準そのものの妥当性について確認するのでもなく、ただ推論の優劣を競うというのはなんだかあまり意味のないことだなあと、昔から思っていて。
じゃあその基準の妥当性ってなんなんだよということになるが、誰がみても疑う余地がないものというのは、科学や技術の進歩などによって細かいものがどんどん積み重なっていって、そうやって確度が上がってくるわけだけど、その過程において、あるいは確度が上がっても知りえない部分において、どうするのかという問題は残りつづける。
おそらく、そこを埋めるのは一種の信仰のようなもので、だからこそ、それを信じようとしている自身にとって、それは輝かしい価値を帯びていなければならないんじゃないのかなと思う。結果として、もし自身の推論が外れていたとしても、それは観測前の電子が持っていたポテンシャルが一時的に収斂したようなものであり、自身のうちにあるエネルギーがただ形を変えただけで、失われたわけではないと思えるのではないか。
むかし、ある民話の解釈について「恣意的すぎてあり得ない」と批判を受けたことがある。いっぽう、そう批判した方の解釈について自分は「その解釈は自分にとっては優先度が低い」としたのだが、それについても理解が得られなかった。その方の解釈は「まあ人間なんてしょせんこの程度だよ」という視点に立ってのものであったが、自分の場合は逆で「人間の持つ希望や憧れこそが時間(の淘汰)を超越できる」というところにあるからだ。
自分にとっての優先度は「その解釈によってあなたの人生が輝くのか」ということに尽きる。前述の方の視点とは、一見他者を見下しているようにみえて、自分を含めた「人間」というものを卑下しながら生きていくことに、ただ収まり、その暗闇に安住している。もし仮に、その民話がそういう経緯で生み出されたとして、自分はそれに何の価値も見いだせない(ゆえに優先度が低いと述べたに過ぎない)。
当たっていなくてもかまわないのだ。
それより、そのひとつの解釈を提出する過程において、自分の人生を輝かせるような体験を得たことをよろこびたい。
それは部分的な死を受け入れることにも似ている。一種の信仰なのだ。