先日の将棋タイトル戦で、相入玉という展開になり引き分けで終わった一戦があった。将棋というゲームでは、最終目標である「王(玉)」という駒が相手陣地に侵入すると、それを「詰ます(討ち取る)」ことが非常に難しくなる。ましてやプロ同士の試合ともなれば、よほど優勢でない限りは、詰ませることはまず不可能と言っていい。それが双方で起こったとなると、そもそも試合を続ける意味がないので、相入玉した場合には両者合意のうえで引き分けとするルールが設けられている(※ポイントを考慮して優勢が明らかであれば合意しない、という成り行きになる)。
で、まあ、先日は王者の藤井八冠と挑戦者の試合においてこの珍しい状況が成立したわけだが、一部の藤井ファンから「挑戦者は持将棋にするなんて卑怯」という声が上がったという。そもそも(上記に述べたごとく)これは将棋というゲームの特質から導かれたルールの上のことであるし、また双方が合意のうえで(つまり優劣がはっきりしていないという展開で)引き分けたわけだから「卑怯」もなにもないと思うのだが、ファン心理としては納得がいかないらしい。あるいは、後から入玉したのが挑戦者のほうだから、卑怯だ、という感覚になるのかもしれない。
ゲームに限らず、スポーツなどの勝負事でもこういう騒動(?)はよく見受けられるように思う。かなり前だが、高校野球で強打者を全打席敬遠するという戦略をとったチームがあり、賛否の声が上がったりしたのもその類だろう。もちろんルールとさらにその背景にある精神というものは別であって、ルール上認められている(もしくはルールが想定していない)ことならなんでもやっていいのかという問題は、どこまでもついてくるものだろう。ただ、今回の将棋の件に関しては、試合にあたっている当人同士が合意しているのだから、そういう懸念は除外してよい。
ファン心理としては贔屓の選手が負けるようなところは見たくないだろうし、ヒーロー(推し)と自分をある意味で同一化し、対戦相手を敵視してしまうのもまあ仕方ないとは思う。
ただし、ヒーローが勝つことによって得られる高揚感とは、(スポーツやゲームという「儀礼」上の)生死を超えることによってこそ得られるものだと思う。その意味では、対戦相手も儀礼の中の必要不可欠なパーツ、パートナーであり、その相手が自分を「本気で」倒しに来るからこそ、自身の勝利が輝くのだ。別の言い方をすれば「死ぬ可能性がある」からこそ、自分の生が価値を持つのである。失敗しない(死なない)と分かり切っている人生(あるいはその一部)などに、いったい何の意味があるのだろうか。それは眠ったまま薬物を投与され、あたたかな夢の中で生き続けるのと何も変わらないように思う。