エンタメに関わる全ての人がというわけではもちろんないだろうが、それをただ「ビジネス」とだけ捉えている人がいるから、様々な不幸が導かれるのではないのかなあと思う。作者にとって制作というのは、ビジネスであると共に「ある種の儀礼的な行為」でもある(もちろん作者がビジネスと割り切っている場合もあるだろうが、そういう場合に前述のような不幸は起こりえないだろう)。
テレビや映画などの視覚映像をメインとした出力と、小説などの文章による演出、あるいはそれらの両方にまたがる漫画などの表現は、それらの特性が異なるゆえに、同じ作品を扱ったとしても、その効果的な方法はやはり異なってくる。ふだん漫画は読まない、というようなテレビの客層に向かって漫画原作とまったく同じ構成のものをぶつけても響くかどうかと言われれば、まあ微妙なのではないか。これは西洋の民話などを日本の読者(多くは子供たち)に向けて出版するときの場合にも似ていると思う。全く知らない名詞や概念をそのままで扱うよりも似たようなものに置き換えて、本筋の展開に入っていけるように工夫する。そこでは、まず興味を持ってもらうことが前提なのだ。
(多くの良心的な)テレビ番組のプロデューサーや脚本家も、おそらくテレビを観る層というのを意識しながら、番組を創っていくのだろうとは思う。原作の小説や漫画とは違う、映像ならではの改変は少なからず必要になるだろうし、原作そのままで面白くなるようならそもそも演出家など要らないだろう。そのあたりの折衝は、映像化の前に済ませておく話ではあったはずだ(そのうえで…今回の件は、なんでこうなった?という話ではある)。
外野からやりとりを見るに、原作者のほうは、エンタメに対する姿勢として相手がビジネスに振れすぎていることを理解していなかった(そこを十分理解しないままに契約したのだから大丈夫だろうと進めてしまった)のだろうし、一方、番組制作側としては、作者にとって作品制作とは一種の儀礼行為でもあること(認知されればいい、客が喜べばいいではないということ)をよく理解していなかったのではないかと思う。その仲立ちをするのは当然、作品の出版社であるはずだが、過去、数多の作家が映像化に及んで不満や諦めの言葉を述べてきたことを考えれば、なかなかにその根は深いようにも思える。が、その出版社とて、(ビジネスは置いて)作者のために良かれと思ってやった部分もあるのかもしれない。
とにかく悲しい事件ではあった。