とあるTwitterユーザーの方が挙げていた、有名ベーシストの方が音楽理論について語る動画をみてなるほどなあと思った。
グラミー賞を過去5回も受賞したレジェンドベーシスト、ヴィクター・ウッテン氏の語るところによれば「音楽家が理論を学ぶのは正しい音を出すためだが、聴き手の心を揺さぶるのはそこから”外した”音」なのだという(だからこそ、そのためにきちんと理論を学ばなければならないのだと)。
理論という土台の上に置かれた「外し」は、たしかにその土台から飛び出して(外れて)はいるのだが、その音単体で独立しているわけではない。たとえばギターソロ。ドラムやベース、キーボードなどがその下部で統一感を出し、ギターを支えるからこそ、そこで奏でられる音楽全体が波(グルーヴ)をつくる。あるいはボーカルが前面に出ればギターもリズム構成に回り、グルーヴを形作る一要素となる。これはドラムやキーボードでも同じだろう。
こうしてみると音楽とは荒波がうねる海のようにも思える。ひとつの要素がその流れから飛沫が沸き立つように突出し、次の瞬間には別の飛沫が空に舞う。しかしそれを支える海面は海面で、うねる波は波なのだ。飛沫は波に戻り、その不規則な繰り返しが、観るもの(聴くもの)の魂を揺さぶる。
だから基礎を学ぶのは大切なのだとレジェンドは言う。ただ基礎を極めろというのではない。魂をゆさぶる「その先」があるのだ。理論だけやっていても、その先が見えていなければ、安定があるだけで何も新たなものが生じない。そのような安定の中に匿われていれば、たしかに不安や恐怖は無いのかもしれない。しかしそのような状況が果たして人間にとってほんとうに「幸福」なのだろうかと言われれば、どうなのだろうかと思ってしまう。
そして人はまた、外した音を含むグルーヴそのものを「新たな理論」として取り込んでいく。そこでは、「外し」は既に外しではなくなり、新たに次元を移した基礎体系から、さらに飛び出していくものが現れる。つまり時間の経過とともに新しいグルーヴが生成されるわけだが、この繰り返しこそが「人」の営みではなかったのか。
言い方を変えよう。
もしそういうこと(外し)が無ければ、人類はただ一つの理論だけに延々と拘泥したままで、せいぜいが「自身に見える世界」を分割不可能なところまで細かく見ようとするだけだっただろう。そしてあるとき、その世界の「外側」にある力が押し寄せ、そこで簡単に滅んでしまっていたのではないか。あるいは、世界の限界を知って、なおその閉じ込められた世界に絶望し、緩やかな自死の道を歩んでいったかもしれない。
現在話題の学習型生成AIも、そういった基礎の部分を効率よく掴んで再生することに関しては、人間よりはるかに長けている。しかしそこで(それだけで)グルーヴが生じることはまずあり得ないのではないか。AIは「飛び出し」をリスクとしてしか認識しない。自らが「外す」ことなどない。そのように、極限までリスクを排除されて出てきたモノの中には、危険なものなど皆無だろう。そのAIに指示を与えた人間が、AIの方向性が「そういうもの」であると認識し、また基礎も心得ているならば、AIを効率を上げるためのアシスタントとして用いつつ、「さらに外していく」ということも可能かもしれないが、AIの導入に積極的な方々の意見をみるに、どうもそういう人ばかりではないようだ。というか、前述のような(基礎もありながらAIを活用していく)人のほうがむしろ少数派であろう。
大昔、人類は狩猟採集生活を営み、日々の食べ物が手に入ればあとは歌い踊って暮らしていたが、ある時点で安定を求めざるを得なくなって農耕を始め、一日の大半を労働に縛られて生きるようになった。その後しばらくすると動物を飼いならし家畜として使い労働効率を上げるにいたった。効率化によって蓄積された富を原資に余計な飛び出し(学問)が始まると、それがまた新たな道具や機械を生み出していった。人々はその都度、長時間の重労働から解放されていったが、その行きつく先はいつも大昔に失った「歌い踊ること」だった。人は、農耕生活の始まりによって方向づけられた宿命を、長い年月をかけてまた元に戻そうとしているのだ。しかし生成AIの濫用は、その芸術に戻ろうとする人間の心を、虚無の世界へと引き下ろすことにはならないだろうか。
農耕の成立から現代にいたるまでの長い時間、「労働」こそが人の尊厳を維持する第一の要素であり、社会につながるためのものであった(そのレベルにおいては人間の尊厳は社会とのつながりにあった)。しかし、道具や機械の登場によって、結果的に人間は仕事を次々に「奪われて」いくことになった。それは尊厳=生きることの意味を失うことと同意なのだ。機械が極限まで社会に行きわたるであろう近未来において、私たちに残された方法はおそらくふたつしかない。学問に生きるか、芸術に生きるかだ。学習生成AI(によって描かれた絵画や、綴られた文章や、作られた曲)は、そんな私たちから「わずかに残された尊厳を奪う」ようなものであってはならないのではないかと思うし、また、このような考えは取り越し苦労であってもらいたいものだなあとも思う。