軍政下にあるミャンマーのある地方において徴兵令が施行されることになり、若者たちの脱出が相次いでいるという。限られた交通手段を争って、その結果怪我人や死者を出すまでのトラブルが生じているとも聞く。
ことはミャンマーに限らない。ウクライナとの紛争が続くロシアでも同様のことが起こったといわれるし、逆に侵攻から領土を守る立場のウクライナ側でさえも、徴兵を逃れ国外へ脱出する人は後を絶たないという。
古代の狩猟採集が主流であった共同体では、人間は土地に拘束されてはいなかったので、自然災害や他部族との争いが起これば、彼らはさほどこだわりもなくその居住地を捨てて新天地へと移動を企図したのだろうと思う。しかし農耕が生業の主流となって土地が「富」を生み出すようになると、土地を追われることがすなわち死と直結するようになる。その時代においては、大海を渡るのでもなければ、「新天地」なるものはすでにこの世界に存在しなくなっていたからだ。
土地に留まって戦おう、我々の財産(土地=富を生み出すもの)を守ろう、ということが命を守ることと同義になると、戦争は相手を徹底的につぶすまで行われるようになる。人々は、支配するか、奴隷となるかのいずれかに分かれる。これは、農耕が始まると同時に人類が背負うことになった業なのかもしれない。富という概念がもしなければ、失うものも大きくはなかったのだ。それは避けられないトレードだ。
しかるに現代にいたっては、富も失いたくないが、戦いも嫌だという逃避家の意見が幅を利かせるようになっているように思う。彼らは土地から逃げるのではなく、不幸な「現実」から逃げるというわけだが、そのロジックは「私ではない誰かが悪なのであり、その悪は私ではない誰かによって排除されるべきだ」というものだ。言うは簡単だが、排除されるべき何者か(悪)がそれ(言説)だけで排除されるわけでもない。そうしている間にも、誰かが私の代わりに血を流して戦っているのだ。
人は所有を始めたそのとき、血塗られた道を歩むことになった。その道から外れて逃げ出すためには所有をやめればいい。この世界に「私だけのもの」という「線引き」をすることは、究極的にはできない。ただ仮定としての、あるいは瞬間としての「私有」があり、その無限の瞬間が重なり合って世界を構成していると考えるほうがよほど自然なのではないかと、常々考えている。