弱者と強者の間に争いがあるとき、何もせずに傍観しているのは事実上、強者側に立っていることになる。中立などというのはあり得ない。というような言説を見かけた。昨今の国際事情(中東の件)などを背景にした発言なのかもしれない。そうであるとすれば概ね同意するしかない。
小中学校などでは今も生徒間の「いじめ」が大きな問題となっているが、指導者から同じような注意がよくなされてきたように思う。いじめ行為に加担するのはもちろんダメだが、見て見ぬふりをするのもいけないのだと。
自分が小学生の頃にもそういういじめ行為はクラスで後を絶たなかった。もう半世紀ちかくも前の話だ。当時は今の子たちよりも男女間の断絶は深く、男子の間では女の子と親しく会話しただけでからかわれてしまうような雰囲気があり、それは必然的に女子差別に向かっていった。しかし、ルックスがよかったり賢く運動もできるような、いわゆるカースト上位の女子に対してからかうのと、そうでもない下位の子に対してそうするのとは、また少し事情が違っていたように思う。上位の子の場合、周りの友人たちがかばってくれたり、からかう男子に反撃(いわゆる学級反省会だ)したりもするのだが、こと下位にある子たちに男子の攻撃が向かったときには、上位グループの女子たちも(もちろん中間層のグループも)まったく無関心であることのほうが多かったように思う。まあ、上掲の「見て見ぬふり」だったわけだ。
これは自分が小学生のころのエピソードであるが、そのようなカースト下位にある女の子がクラスでいじめられていた。ルックスもあまりよいとは言えず、成績もよくなく、授業等でみえる範囲では何一つ得意なものはなさそうな子だった。体育のフォークダンスでは、男女ペアで踊るときに、ほぼすべての男子から手をつなぐのを拒まれていた。一部の心無い男子からは「バイキンがうつる」のように言われていたように記憶している。学級会でそのことを議題に挙げてくれるような子もいなかった。もちろん自分もそんなことはしなかった。傍観していたお前もいじめに加担していたのと同じだと言われれば、その通りだと認めざるを得ない。
自分にできたことといえば、ただフォークダンスのときに、他人に同調せず、その子と手をつなぐことだけだった。
弱者の側につくか、(消極的であっても)強者の勢力圏にいるか、というような二択は、ある文脈においては大きな意味を持つものだと思う。しかしそれは、自らもその両者間の争い「そのもの」に身を投じることと意味を同じくしない。そういう争いを目の当たりにし、なおその争いから身を離して、自分に何ができるかを考えるために、その二択が存在するのではないか。これは、いじめっ子といじめられっ子が傷つけあい、どちらが権力を持つかを決める、というような話ではないはずなのだ。誰もが、どうやったら昨日よりも笑顔になって明日の人生を歩んでいけるかを考えるのでなければ、あいつは誰々の味方だ、あるいは敵だと罵り合って、何が得られるというのだろうか。
「小さなA国の人たちが隣国の大国Bから攻撃を受けて苦しんでいる、何もしないあなたはB国の暴力に加担しているのと同じだ。正義はA国にあり。悪のB国をみんなで懲らしめなくてはいけない」
世間によくあるこういった言説のロジックは途中から捻じ曲げられているのだが、前半にはケチのつけようがないために、そのおかしさに気づく人は少ない。正義とか悪とかを決めることが本質なのではなく、どうしたら苦しんでいる弱者が救われるか、そのために「自分には何ができるか」を考えることが大事なのだ。現実の世界は正義や悪などという明快な色分けで語られるようなものではない。たいていのケースでは、弱者の側にも強者の側にも、その両方の色が複雑に混じっているものではないか。弱者の側に皆がつき、彼らこそが正義なのだと断じれば、今度はその陰で、そこに含まれているわずかな悪が次第に肥大化し、別の弱者を抑圧することもあるかもしれない。