法と倫理のむこうがわ

oll_rinkrank
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妻子ある有名芸能人が女性とのパーティに興じただけでなくそこで女性に性的行為を強要していたと一部で報道され、批判を受けている。芸能人と事務所側は、「強要」は事実ではない、として争うとしているが、とくに左派論陣からの評価は(「不倫」に関して)すこぶる厳しいようだ。そういえば先年、WBCにも出場した超一流のプロ野球選手にも同じような疑惑が発生し(結局は和解・不起訴ということになったようだが)、世間を賑わした。

もちろん強要があったとするならば犯罪であって法の下に裁かれなければならないが、個人間の関係のもつれからくるいざこざであれば、そこで苦しむのは本人とその周囲の「関係者」だけで、本来は外野が口をはさむようなことではないだろう。

「倫理」が存在する裏には、そこに発生する利害が想定されているからだろう。つまりこの場合には、一夫一婦制によるメリットを享受できなくなるという事態が想定されるからだ。目立つ芸能人がその倫理を破れば、世の人々もまたそれに流されやすくなるという危機感があるのかもしれない。だが、現代社会において、一夫一婦制が過去のようなメリットを維持できているのかどうかと考えるとき、その倫理が単体でいま、力を持ち得ているのかどうかには、もっと意識的にならなければいけないのではないだろうか。

そもそも、左派の方々というのはそういった旧態の価値観(この場合は一夫一婦制)に対し、疑問を投げかけることがスタンスだったように思える。保守的思想からの自由はどこに行ってしまったのか。一夫一婦制こそが権力者からの押し付けではなかったのだろうか。

自分の考えるところ、一夫一婦制とは、男性が富を独占し女性を囲う(あるいは富と女性を分配する)という家父長制度のもとに作られたシステムにすぎない。男女平等が叫ばれる昨今、今後は誰しも自由で対等な関係が結べるようになるために、そのような旧態の価値観こそ疑問視されていいのではないだろうか。

芸能人とは俗世間の人々から隔てられているからこそ異能の人であり、旧態の(保守的な)倫理を超越している、それこそ左派的存在だと思う。権力者に対し「おまえたちの威勢など紙のように実態の薄いものだ」と見せつけるからこそ「芸」なのだ。

戦国の世には傾奇者というアウトローたちが存在していたという。かれら傾奇者を扱った人気漫画の『花の慶次』では、主人公の前田慶次が権力者である秀吉に謁見するシーンがある。秀吉に頭をさげるふりをしながら顔は横を向けている慶次に、私たち鑑賞者は「芸」の神髄をみるのだ。

・・・もちろん件の芸能人には、このところ権力に媚びているような振る舞いがみうけられるからこそ、左派の方々は気に食わないのだろうが、それでも自らの本来のスタンスを見失わないためにも、本質を見誤ってはならないだろうとは思う。法を破ること(この場合は性的行為を女性に強要すること)は芸の範疇ではなく、それが事実であれば罰せられなければいけないが、ただ倫理違反と騒ぐのであればその背景にまで心を寄せなければいけないだろう。