午前中いっぱい仕事をしてから天神へ。14時より「本のあるところajiro」にて読書会。課題書はS・A・コスビー『頬に哀しみを刻め』(加賀山卓朗訳 ハーパーBOOKS)である。
この作品をざっくり説明すると、出所後庭師として地道に働いていた黒人のアイクといわゆるレッドネック(白人貧困層)のバディ・リー、それぞれの息子が惨殺されたことから、本来交わるはずのなかった二人が結託し、息子たちを殺した犯人に対して復讐を企てるといったクライムサスペンス、ということになる。このような、なかば手垢の付きまくったプロットでありながら、ふたりの息子たちが結婚していたりアイクとバディ・リーの間にも人種の違いによる考えの相違があったりと、アメリカ社会に根強く残る差別意識を浮き彫りにしながら二人の父親の怒りや葛藤を描き出しているところが出色で、私は大変おもしろく読んだがゆえ、今回課題書に取り上げたわけである。
読書会に参加した人の半数以上は、本作に対して批判的な見方をしていた。読み方や受け止め方は人それぞれで正解などないわけだが、それにしてもこれほど受け入れられないというのは正直なところ意外どころかちょっとショックでもあった。なかでも気になったのは以下のような意見である。
《著者自身が黒人であることから、黒人差別についての描写はよく書き込まれているけれども、ゲイに関する描写については本人がそうではないからか、上辺だけのような印象があった》
「文化の盗用」とは、ある文化やアイデンティティを有する人が、他の文化やアイデンティティを無自覚に取り入れる行為を指すが、上の発言をした人は、意識してか知らずか、著者に対して文化の盗用を批判してしまっている。当たり前のことだが、黒人じゃなければ黒人のことを書けないわけじゃないし、ゲイじゃなければゲイのことを書けないわけではない。要はどう書くかだ。焦点を当てた人たちの尊厳を損ねる書き方でなければそれは許容されうると思うし、少なくとも私は、上のような印象を持たなかった。もちろん、ゲイ描写が上辺だけだとか平板だとかいう印象を持っても全然構わない。しかし、その理由を当事者性に求めるのは非常に危うい考え方だと思う。
文化の盗用は、それが明らかな場合は批判されて然るべきものだと思うが、よく掘り下げて考えることなく闇雲に批判することは、逆に本来出るはずであろうさまざまな意見を抑制してしまう可能性もある。自身とは違う属性について言及する時の心構えを、改めて思い知った気がする出来事であった。
缶ハイボール350ml一本、焼酎一合。