斜線堂有紀先生の『本の背骨が最後に残る』を読み終えた。近所にある書店に立ち寄るたびに何度も確認してが、ずっと入荷している様子はかった。そして昨日、やっと見つけたとおもったらもう2版! 初版を手に入れられなかったのは悔しいが、好きな作家さんが大衆に求められているのは嬉しい。
異形コレクションに寄稿された短編いくつかと、描き下ろしが一遍。ちょっとした異世界でのホラーを読んでいるような心地がする一冊になっている。
とくに、『本の背骨が最後に残る』が印象深かった。舞台は紙の本がない国。従来の本の代わりに、『本』と呼ばれる人たちがいる。そして、普通の本は肺のない本、人の本は、肺のある本というように呼び分けられていた。もっともその国では、肺のない本は禁止されているのだけれど。そしてもうひとつ、破ってはならない禁忌がある。それは、肺のある本は物語をひとつしか宿すことができないということだ。いくつもお気に入りの物語をその身にかかえることはできない。そうしてしまったが故に、十という美しい本は自身の両目を焼かれている。
そしてその国での娯楽は『版重ね』という本同士の争いだった。先程言ったように、この国には肺のない本がない。故に、肺のある本が物語を語りついでゆく。しかし物語が人気であればあるだけ、その物語を語って聞かせる本も、またその物語を身に宿す本も増える。でも口から口へと語りついでいくうちに、ちょっとした齟齬ができてしまう。生まれてしまった『誤植』を、もう片方に統一する。そのための儀式が『版重ね』だった。誤植と見做された本は燃やされる。最後に残るのは、背骨だけ……。
恐ろしいことに、本たちは正しさを秤にかけられているようでいて、そうではない。自らの正しさを証明しなくてもいい。わたしが正しい物語であると、そう大衆に認めてさせるだけでいのだ。そうやって認められた物語が、誤植から正しい物語へと生まれ変わる。はじめからそうであったように扱われる。対して、正しかったはずの、人の形をした本は燃やされていく。どんなに正しい物語を紡いでも、大衆の意見が傾いてしまえば、焚べられた火に沈められる。その背骨があらわになるのを心待ちにされてしまう。でもそのおぞましさの中に美しさを見いだせてしまうのだから、恐ろしい。一体どんなふうに生きていたら、本の役割を人が担う世界を思いつくのだろう。もうすっかり斜線堂有紀先生の作り上げる世界に魅了されてしまった。